舞踏馬鹿の独り言
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舞踏馬鹿の独り言 ⅩⅡ
正朔
ご挨拶、思い出の言葉と最後の稽古の言葉など (「」内は土方先生の言葉です)
去る2月8日DanceMedium公演『帰ル』再演の二日目の準備をしている最中ロビーに出ると40年ぶりの大雪で外は雪と風が荒れ狂い、まるで北国の様でした。すぐに先生からのプレゼントだなと思いました。
「普通じゃ駄目だろう」
良い踊りが踊れるようにとプレゼントしてくれたんだなと思いました。あまりのキャンセルにお客様より出演者の方が多いのではと思いましたが、開演してみると昼も夜も予想以上の多くのお客様においで頂き、これほど感謝の思いで胸の詰まる公演はありませんでした。いらして頂いたお客様、本当に有難うございました。
この舞踏馬鹿の独り言はこれで二年になりますが今回で休ませて頂きます。今後又書く事が有るとすれば、より具体的な事を書いていく必要があり、その方向、方法に対して判断つきかねる事が多くあるからです、言葉という物は恐ろしい物だという事です。この二年間書いた物を読んでみると、たった一つの事だけを言い続けていたんだなと思いました。意識と体の関係性を変える為に、本気で空っぽの体になる事、一分一厘残さず観念や感情を体から追い出す事、そして少なくとも踊りの最中には二度と入れない事、そうして初めて空の体になった時、様々な要素が出入りでき、体は敏感に作動出来るようになります。意識や感情が無くなるわけではなく、体との関係性が変わるだけなんですが、舞踏とはそこからしか始まらないと教えられ続けました。為すのでは無く、為される体になる。
舞踏の採集といっても色々な方法が有りますが、その周辺の言葉をいくつか見つけてみました。
「私は稽古場に鏡を置きません、一つも無いでしょう、この壁をじっと見つめるんです、そうすると自分自身の姿がありありと映ってくる、鏡なんて必要無いんです」
「壁を撫でていると平面じゃない、毎日違うんです。それをこうして擦っていると何故かアーンと泣いてしまうんですね、摩擦によって感情が発生するんです、壁をずーっと撫でながら泣いている人がいるんです」
「踊りなんて何にでも習えるんです、自然の物を特にこういう風に指で潰すと、ポロポロカサカサする物が特に良いですね」
「アスベスト館の二階で手首を剃刀で切って、一階の稽古場の床にその血の雫が滴り落ちる音を耳を澄まして聞く様になってしまいますよ」
「トイレでの採集は良い、たくさん出来る」
「風呂に手間取る、半日かけて全身を洗えない、色々な採集が出来る、まるで何か大変な事をしてしまった様に終わった後、階段を這いつくばる様にして帰る」
「現実ほど面白いものはない、普通の生活の些細な行動を執拗に採集する、ぶれる、脱臼など、子供、幼児、病人、老人など」
「技術より、その技術が何処から出て来るのかを、何処から声が発しているのかを採集する」
舞踏における普遍性に関わる言葉を少し、
「舞踏は舞台と生活を画期的に結びつけた」
「舞踏は生活そのままでは無く、生活の謎を解く方法」
東北歌舞伎計画のリハーサルの時、客席に凍りついた様に立ち尽くす掃除のおばさんがいました、声をかけると
『私は芸術なんて何も分からない、でもこの人達が素晴らしい事だけは私にでも分かる』
と興奮して叫びました。この時の恐ろしいまでの形相は、今でも私の表現への裏切ってはいけない指針の一つです。
「おかしな事をしている様ですが(舞踏表現)この方がずーっと本当の事でしょう」
先日の『帰ル』を見に来てくれた友人が
『舞踏は、ずっと分かりにくいものだと思っていた、でも今回の公演を見て、ここにいる様々な分からない物達が、全て自分の中に既にどれも有る物だと気付いたんだ、無理に分かろうとしなければ、全て体感出来た』
と言ってくれました。一般の方々と共有する普遍性の問題はけして安直に扱うものではない重要な問題だと思います。
合田成男さんと二人で話しをした時、ある舞踏への願いを語られました。
『土方はどう思ってたんだろう』
同じ事を先生も言ってましたよと言うと
『私は嬉しくて涙が出そうだ』
とおっしゃった言葉
「卑俗な物が高貴な物と一緒になれないか、まだ舞踏で解決されてはいない」
先生の最後のワークショップの言葉です、合田さんとも4年くらい前の事です、全く解決など。
先生との日常の話をいくつか書いてみます。ワークショップが終わると最後に暗転の中歩行し続けるのが慣例でした。歩行が終わると先生が既に居なくなっている日があります。そうで無い日は私達が更衣室で着替えていると外がやけに騒がしく、
「早くしなさい、出てきちゃうじゃないか」
と声がして出て行くと茣蓙が敷かれ酒が置かれていて
「まーっ、少しお酒も有る事だし、少し呑んでいかないかね」
そうした日は帰れないのですが、この差は後で知りました。先生の居ない日は暗転の内に二階に去り、しゃがみこみ頭を抱え、今日は駄目だったと悶絶していたそうです。どれだけ必死に私達に関わっていて下さったのか、上手くいけばどれほど喜んで下さったのか涙が出てしまいます。
「けち臭い奴に舞踏が出来るか」
先生は何でも人にあげてしまいます、形見分けに服を調べたら、いつも着ていた大島紬一着とシルクのスーツ一着しか無く、他はみんな上げてしまっていました、私の形見分けはパジャマの上着です、何処かにパジャマのズボンの人もいるんだろうなと思いました。
稽古場にみんなで泊まると朝は「ビール買って来い」とビールです。先生は座を盛り上げる様に話し続けます、そうした折に
「あいつは狂ってる、気狂いだ、気狂いだ」
と大笑いされた事は何故か嬉しく覚えています。そうした中に第二の師匠が上がって来て、『あんた達いつまでいるの』と怒られ、まずいなと緊張が走り、先生がトイレに入った時に(いると帰してくれないので)一斉に立ち上がると、先生がトイレから飛び出してきて「お前ら、そんな事するもんじゃない」と怒鳴り、皆が座るのを確かめてから又トイレに飛び込んでいったのは懐かしい思い出です。
公演活動も始まり、厳しく細かく決められた振り付け演出、しかもそれはどんどん変わり続けます。シーンの中での不都合は当然起こりますが、出演者はその世界を守らなければいけません。リハーサルですがある踊り手が振り付けだけでは間がもたず踊れなくなってしまった時
「言われなきゃやらないのか、お前は一生人に言われなきゃ何もやらないのか」
と怒鳴られその子は泣き出してしまいました、すると先生は声を落ち着け
「舞踏家は細い神経を持たなければいけません、しかし、それを支える強靭な神経も持たなければいけないんです」
その公演の後、先生と二人きりで酒を呑みました、上機嫌の先生は突然私の方に身を乗り出し
「オイッ踊れ、踊るんだ。踊るしかないじゃないか、踊れよ、踊るんだ。現にお前こうしてここで踊っているじゃないか、踊れ、踊れ、踊るんだ」
何を言っているか分からず困惑している私の顔を肴に嬉しそうに先生は酒を呑んでいました。その日の私のわずかなソロパートをとても喜んで下さっていた事を後で人づてに聞いたのですが、このエネルギーの注入の様な言葉の連呼が先生亡き後の苦しい時代をどれ程救ってくれたことでしょう、これは私だけにでは無く、先生の踊る者みんなへのエネルギーのプレゼントだと思っています。
『親しみの奥の手』というアスベスト館での公演が有り、打ち上げで二階は著名人の方でいっぱいになり、女の子達は料理接待で忙しく、若手の男達は一階の舞台周辺で酒を呑んでいました、宮川正臣が
『ねーっ、照明も音響も舞台も有るんだから踊らない』
と言い出し踊りはじめました、銭湯から帰って来た第二の師匠は見事な孔雀を踊って行き、和栗さんが降りてきて牛を踊ってくれ、盛り上がってきて私とえーりじゅんが全裸でデュオを踊っていると突然誰かが『アッ』と叫び、振り返るとわずか幅10センチの柱に必死に体を細く隠して先生が見ていました。見つけられた先生は何故か気まずそうで
「いやっ、ここはみんなの為の舞台だから自由に踊って下さい」
とスーッと上がっていってしまいました。こんな私達からも先生は何か採集していたのでしょうか。
夏も過ぎた頃から少しづつ先生の体調がすぐれないのは伝わってきましたがワークショップは11月まで続けられました。東北歌舞伎計画四に向け稽古をするのですが先生の健康状態はしだいに悪くなり、それでも公演の準備は進みます。用事が有り二階に上がると、先生がソファーに全身から綿の粉を噴出しきった後の様に力無く横たわっています。
『先生、大丈夫ですか』と聞くと、
「うんっ」と頷かれ、
「踊りは大丈夫?」とかすれたような声で聞かれました。今思えば公演の準備の進み具合を聞きたかったのかもしれませんが、私は自分の踊りしか考えていず、
『ちゃんと踊れるか自信がないんです』
と答えると、うっすらと笑い
「大丈夫、大丈夫ですよ、ちゃんと踊れます、ちゃんと踊れますよ、大丈夫」
先生が一番苦しいのに、優しく励ましてくれました。
幾日かが過ぎ、若手の男だけの最後の稽古が有りました、その日の先生の言葉とそれから四年後の思いを、江古田文学1990年17号『土方巽・舞踏』に寄稿しましたが、その抜粋をここに載せさせていただきます。
『東北歌舞伎計画四の稽古が始まり、土方先生の健康状態が普通でない事は自然に伝わってきて日々の緊張感は張り詰め、男子最後の稽古の日、それまで腰掛けていた先生が急に立ち上がり「女の曲線は綺麗ですよ、男なんて誰も見てくれません、じゃ男は何で見せるか、形を見せるんじゃない、見えない物を見せるからあれは何だと見えてくるんです。手など普段はただの尻尾のようなものでしょ、ただぶら下がってるだけでしょ、でも舞台の上で動く時、初めて手は手として誕生するんです。大きく暴れるんじゃなく、ほんの僅か静かな肉体が小指の先を立てる事により世界は爆発するんです。全ては体の内側にあるんで外部に頼って暴れても何も得られないんです。表現しようとするのではなく、じっと内部を辿るんです。
自分にボーッと取りつかれても駄目、感覚馬鹿(何かというとすぐ感覚感覚と言う人)も駄目、すぐイメージや偶然に頼りたがる。棚から牡丹餅落ちてくるの待ってたってね、落ちてこないんですよ。偶然なんて待っているんじゃなく、首根っこ捕まえてこっちに連れてくるんですよ。白目を剥いて黙って動かない奴がいます、そんな奴は形を真似ているにすぎません、ただ時間が経つのを待っているんです、偶然を待っているんです、その証拠にすぐ暴れだす。今の舞踏家はすぐに出鱈目に踊ろうとする。出鱈目、出鱈目こそ舞踏の母体です、理想です。でもそれは神の天地創造と同じで誰も見た事の無い事なんだ。出鱈目を踊るといって即興だと言っている奴、そんな事は遠くから蟻の動く軌跡を長時間映していると同じ軌跡しか動かないように同じ動きを辿っているに過ぎない、即興は単なる必然の一つにすぎない。即興が大事なのではなく、即興性が大事なんです。真の出鱈目とは命が誕生する、正に光が差され、産まれ出でた時に初めて為される動き、それこそが真に出鱈目の姿であり、舞踏の理想の姿なんです。私が布団の上で苦労して作り上げた形の形だけをみんな盗んでいきます。誰が特許料を呉れます。みんな不真面目です。舞踏を行うのに真に必要なのは、内部の世界へ入っていき、そこに身を置き続ける勇気と偏執的にそこで採集する性質と、そういった事を組み立て練磨していく知性です」
話し終えた先生は二階へと去り、変わりに第二の師匠が階下へと降りてきて
『先生の入院が決まりました』と告げました。
私はじめ土方巽の最後の弟子である私達は真に舞踏体でありたいと渇望します。空っぽになった肉体が為すのではなく、それでも足りないので為されるから踊る、肉体の細部に厳密であり、人類の古代から未来への歴史、風土を身に帯び、命や存在など人々の普遍性の世界に身を沈めていく。
振り付けというと形のみの継承ではないかと疑われたり、舞踏が伝統芸能化していくのではと危惧される方もいるかもしれません。しかし私達の舞踏メソッドが行おうとしているのは、形が生まれ出る時の一回性の必然性を決して衰えさせず再現可能にしようとする事です。内部の荒野に身を晒すという事は思いつきや思い込みによる自己表現の世界で充足する事では無く、天地の森羅万象に体を開く事です。そこから生れ出される形を採集し、再現可能な舞踏体が時間を掛けてあるいは瞬時に形付けられていく。舞踏に於ける即興性は我を出して逃げ回る事ではなく、過敏に揺れる花一輪が運命に腹を括り、荒野に身を投げ出し晒す、その決意の連続する瞬間にのみあるのではないでしょうか。
追伸、舞踏にとって日常こそ大切だと言われますが、日常の中の舞踏性を発見する事が大事なのであって、人間性そのままを持ち込む事は舞踏性を見失う原因にこそなれ、何の益も無い事です。日常性という舞踏に私怨、我欲、自己陶酔、他にも凡そ舞踏とは関わりの無い様々な要素が入り込んで来ているように思えてなりません。
「舞踏とは今ここから生れてゆくものなのですよ」
その言葉を信じ日々生きていこうと思います』
今から24年前に書いた文章です。
葬儀は嵐のように様々な事が起こり、私達一番下の弟子は受付や雑務に走り回り、焼香すらやっとの事でした、その後の宴会の用意の為、火葬場にも行けません。先生の棺が担ぎ出されます。ずっと遠巻きにしか先生の体に近寄れなくて、もう先生の体が無くなってしまうと思った瞬間
『私にも担がせてください』
と叫びながら駆け寄ると、中村文昭さんが
『オオーッ、担げっ』
一番前を空けてくれ、霊柩車までのわずかな時間、先生の体の重みを感じさせて頂きました。葬儀の後も様々な雑務や偲ぶ会など忙しい日々が続きましたが、最後に踏天寮生(ワークショップの生徒)が内輪で踊りを捧げる会を催しました。大森政秀さんや武内靖彦さんも自分もそうだろうと言って来てくださりました。その翌日、アスベスト館を後にすると、激しい喧騒から突然何の予定も何も無い世界に放り出された思いがし、真島大栄と斉藤吉彦と三人あても無く歩き続けました。真島が
『オオーッ、花見でも行くか』
と言い出し、季節は激しく桜が舞い落ちる時期になっていました。何も話さず何時間も何時間も散る桜の中で呆けきり、何処にも居ないものになっていたように思えます。葬儀の最後の挨拶で和栗さんが言った
『人生で最高に素敵な人でした』
という言葉がグルグル回っています。
その背後の空から切れ切れの先生の優しい声が花びらの様に舞い降りてきました。
「俺が死んだら墓に石は置かずに梨の木を植えるから、お前その実を食ってくれよ」
「純粋だねっ、純粋だねっ」
「こいつは俺の顔の神経が一本動くと俺が何を言いたいのか全部分かっちゃうんだよ」
「俺は墓の中に電話線繋がせるんです、それでみんなに電話かけまくるんです」
「今うちの稽古場には、息子が二人いるんです」
「あいつは本物だよ」
「人間はね、残念ながら死ねないんですよ」
「オイッ、火の玉、どうした」
舞踏馬鹿の独り言 ⅩⅠ
正朔
ご挨拶と最後のワークショップでの言葉を中心に
( 「 」内は土方先生の言葉です )
舞踏馬鹿の独り言の連載も次回でちょうど二年になります。秦さんから連載のお話しを頂いた際に二年は書いて欲しいとの事だった事と、書けば書くほど書かねばならない事の深度が深まり、広さも増していくにつけ、先生から直接頂いた言葉によるコラージュとしての形態で、肉体としての言語を使い、踊りとしての文章を書くというスピード感、正確さを守るという責務に対して誤解を招きかねない文章(言葉が先生のままでも)が有ってはならないという思いがつのり、もう一度資料をよく見直す時間がしばらく頂きたく、次回でお休みさせていただきます。長い間、私のような者の書く(実質的には先生の言葉の引用なのですが)お読み頂き有り難うございました。たまたま私が先生の教えを受けた時期ワークショップが非常に多く、始まりは先生の言葉からいつも始まりました。受講中にも先生が「私は本来、体に直接教えるのですが、今回はやむをえず言葉を多用します」と言われ、原稿用紙に書かれた言葉を浴びせかける様に踊る様に語って下さった事と、お話しを聞かせて頂く事がかなり多かった事、そして私が筆記する習慣が有り、何故か最初から技術的な事とこうした言葉を分けて書く癖が有り、それを三十年何度も読み返し、白桃房の十年第二の師匠による繰り返された検証により深く脳裏に刻まれました。私にしても先生のおっしゃるように、具体的に体に接する事によってしか、その細部はお伝えできませんが、これらの言葉を公開できた事は至福の至りです。思えば秦さんに通信に書かないかと言われた時、私ごときがと思い何年か過ぎ、2011年三上賀代さん主宰のとりふね舞踏舎夏期集中ワークショップに講師として呼ばれた時、やはりいらしていた合田成男さんと二人だけで長く話しをし
『君みたいにね、実際土方の現場で踊っていた人間が、もっとみんなに話さなければいけないんだ、黙ってちゃ駄目なんだ』
と言われ、その後秦さんから又お誘いを受け、書かせていただく事になりました。秦さん、合田さん、三上さん、そして読んで頂いた皆さん有り難うございました。今後もう一度資料をよく見直し、視界を大きく拡げ舞踏への思いを書ける機会が有ればと思います。私の今まで書いた文章は江古田文学の土方巽追悼の文章以外全てブログに載せていますのでご興味の有る方はそちらもご覧下さい。
今回は中期も有りますが、最後の集中ワークショップ(11月後半)を中心に技術と肉体の関わり様、これは技術の否定では無く、技術礼賛の否定です、同じく、技術否定礼賛の否定でもあります。体を活性化するメカニズム、体の内外の問題、肉体における距離の測定、また位置の確認そして何処へ向かうのか、こうした事をワークショップでは具体的に体で行う事で進められました。
「体を過酷に扱う事によって、体を活性化する」
「テーマを拡げ過ぎるな、二つか三つを丹念に繰り返せば、めくるめく様な世界が作れる」
「何処を強調するかしっかりとらえる、ただ技術を追っかけない」「技術が再生するのは可視的でなければならない、単なる技術は役に立たない」
「思いにただふけってはいけない、しっかりと何をしているか認知する」
「エクスタシーはそうとう下品」
「歩行というものがどういきるかというのは、その人の活性化、でないと単なる構成上の魔術師になってしまう」
「技術修得ではなく、覚えた事をいかに早く忘れるかを修得する」
「好きな事にばかり熱中せず、嫌な事に熱中すると魅惑的な世界が拡がる」
「たくさん覚えると能力が潰される」
「身振り手振りで説明する事はない、手や体に見つめ直されてしまう」
「訳の分からないものを(生命とか霊とか)丹念に取り上げてみる」
「見慣れぬ物に付きあっていないと、単なるオブジェ化してしまったり、組織化された物になってしまう。嫌な物に熱中する様にしてみる、ぐったりとした音響楽」
「恐怖さえ有れば踊れる。表現するのは止め、客観的に見る。舞踏家は恐怖心を沢山持っていなければ」
「恐怖という物を外在化する事が出来るはずだ、鬼の面、物質化出来る」
「物の崩壊、蓄える事の空しさを知っている。破壊する側が舞踏、何を破壊するか、まず自分から」
「霊的な物の見方、普通の物の見方は教えられた世界」
「夢を見た状態ではなく夢の中へ」
「破壊の総和の為に」
「もう一つの時間、分かりにくい曖昧な辺境ぎりぎりを歩く」
「物質の生命にピタッと寄り添う女性が綺麗だ」
「疲れとか疲労に近い所に煙が有る」
「技術より何処から声が発しているのか、その技術が何処から出て来るのかを採集する」
「前後とか左右とかいう事からまず一歩退いた方が良い」
「道とは方法、体が滅びていく時初めて見えてくる。こちらからあちらに彷徨う、あちらからこちらに彷徨いこむ、こちらとあちらは一つの物」
「踊る者と見る者との間で何かが禁止される。それを犯す喜び、このままじゃ自滅してしまう、自滅すれば良い、そこから始まる、曖昧になってしまう、曖昧さこそ母体、曖昧さを抱いてやる」
「私にとって東北とは私の肉体なのだ、土俗とは何処にだって根付く、自分の生きている所を大事にした方が良い」
「観念とは遠い所にいた方が良い」
「自分の中に異国を感じる、私の中の旅、内側で外側を包む」「柔らかい手が私を抑圧してくる、舞踏がまずく合理化されていく」
「人間の形態から遠く離れて、ある奇妙な原型への旅」
「まず自分が汚れる事、そして観客の汚れ全てを引き受ける事、存在に揺さぶられた世界、アルトー、ニジンスキー」
「私とは一個の汚れ物である、更に汚れを怪物的に育てる事へ」
「兎、自分自身を聞いている」
「カオスをそのまま置かず変質させる」
「存在が複雑骨折している、何も成り立ち不可能」
「見えない衝突に常にさいなまれている」
「世の中が荒廃していくのを喜んでいる、生き生きしてくるから」「イメージとは一個の牢獄にすぎない」
「生の波動に密接な物を作れ」
「空間は退屈している、そこに私達が輸血してあげる、そうすると逆に輸血される、錯乱」
「全て自分で決めなければならない、触ってくれるな」
「イメージの介在出来ない所に追いやる」
「あらゆる限りの無知と悲惨を現出する」
「体の中は様々に皮膚が有り区切っている、隔てている物は何なのか、薄いので破れる、皮膚は破れる一過程にすぎない。皮膚の内側に自分を閉じたまま和解しようとする。本当は破れたいのに、舞踏は破れていきたい、熱い忍耐で武装して街々(体内)に出て行くのだ」
「あるメソッドなどを分析していく、その中に少量の観念が入っていると、そういう所には有機的な物は貫通していかない」
「舞踏は酵母の様な物になり、内部から孵化していく、酵母の様に現実に接触していく、欧米人が見て、今まで持っていた身体が溶けていく、入っていくという事」
「イメージとこちら側をぶらしていく」
「自分達が徹底して不自由な所に落ちていくと二人の人間は和解できる、溶けられる」
「空間が凝固して爆発的に固まった顔」
「人間にはグロテスクな部分は一つも無い、有るとしたら時間」「無際限な空間を求めているが、あまり拡がると届かなくなり泣いてしまう」
「限界ギリギリまで接近すると、範囲を超えた所が見えて来る」「歪められた、ぶれた距離の測定、距離を歪めてみる、ぶらしてみる、そうして初めて見える物が有る」
「希薄な展開、どこまで希薄になれるか」
「薄い揺れが空気に混じって、そこに肉体の衣装もしまってしまいなさい」
「感情、そんな物は対象によって起こされた単なる一種のエネルギーじゃないのか」
「登山家が絶壁を登る時、ふっと見上げると巨大な物の一部にしがみついている、私達は巨大な円の中心から遠い所に居ると気付き始める、確かにそこに居るけど、巨大な物の一部、遠い所の木霊であると感じ始める、遠い所から離れている自分の位置に気付く、中心の中に入っていきたいと思ってもそういう意思から離れなきゃならない。遠くに退いていく時に原寸大のフォルムを見る事が出来る」
「ラスコーの模写は模写では無い、飢えと狩りの要請に導かれた、予習であり復習である」
「場所として人体を見る」
「生は死の中まで生き延びて、植物の中を生きている、内でも外でも無い、道の始まる所、交わる所が無いと活性化しない」
「仮面は光、今の光はほとんど夜、夜から仮面を剥ぎ取らなければならない」
「生と死は相対する物では無く、一本の草の双子の花だ、生の礼賛はそれが真に深く正しければ死の礼賛だ、死を否定する文明は生を否定する」
「時として二つの波、それは身体、時として二つの石、それは身体(オクタビオ・パス)」
「面白い事は腹いっぱいになり終わるが、嫌な事に固執すると延々と魅惑的な世界が続く」
「無知と悲惨に美はかなわない、感情などから完全に離れている」
「死、完全なる拒絶、死は死に続ける」
何度も読んでいますがこの最後のワークショップの言葉の力は恐ろしい力を感じます、実践した踊りの稽古も今でも謎を含む私の宝です。最後に中期の頃の言葉ですが先生の立居地を示す大好きな言葉です。
「踊りの究極は鐘の音、ボーン(実際に鳴らす)全て均一に鳴り響く、水晶の中で金の鈴を鳴らす、(実際に鳴らす)寂滅の境地ですね、これらは天上界の踊り、でも、舞踏は生活、現実から離れられない、人間が光だから」
舞踏馬鹿の独り言Ⅹ
正朔
舞踏の潜む場所
( 「」内は土方先生の言葉です )
私事ですが一昨年の震災後の9月に行ったDance Medium公演「帰ル」の再演が来年2月、シアターⅩで行われる事が決まりました。この作品は昨年4月長岡ゆりと共に舞踊批評家協会賞を頂いた作品です。この作品を作る動機を産んだ状況は現在もなんら変わらないままである事、多くの人達に伝えたかった事が限られたお客様にしか見ていただけなかった事を残念に思い再演を望み続けていましたが、これだけ時間がかかってしまいました。当時どこにも掲載しませんでしたが、作品作りへの思いを書き記した文章をここに載せます。
『 「帰ル」
人は苦境に追い込まれた時現実よりもその不安に苛まれ、自らその窓を塞ぎその魂を崩壊させていく事を何度も体験しました。しかし、これが集団となると、その枝葉は絡まり合い加速度的にその強度深さを増し、窓を開けようにも開けられず集団で奈落の底に落ちていく事になりかねません。3・11の震災、原発の問題の後、世界不況も絡み合った閉塞感。それぞれが自らの足で生きるという方向へ踏み出す事を強く提示しなければ崩壊への方向へ人々が穂先を向けかねないのではという危機感からこの作品を作りました。歴史を振り返り見れば、天災人災の繰り返しです。人の一生においても生老病死愛別離苦、平坦な生涯の方など有り得ないでしょう。私の師、土方巽は言いました
「原爆、そんなもん毎日落ちているじゃないか」
命がこの世に置かれるという事は生死、聖邪、喜びと苦しみなど様々な相対立した要素の混濁した中に立たなければいけません。一つの極の側に立つ事など有り得ないし、そう思い込んだとしても、それは一面的な見方にしかすぎません。今回起きた事が特別な事では無く、生きるという事がそもそもどういう物なのかを極端に露呈された事件だと思っています。舞踏家の使命として舞台上において、この世という現実に体を開き自分達が存在しているその地点から生きるという誠実な一歩を歩む事により、ご覧頂いたお客様へ、より生きる事への共振がお伝えできればと願っています。
「帰ル」、何処へ、それは命が生まれでた所かもしれません、それは至るべき未来かもしれません、それは存在に根差したこの生きようとして一歩踏み出すこの瞬間かもしれません。帰ルべき所へ。人間はけして独りぼっちにはなれないんです。生きとし生ける者の命は全て祝福されているんです。生きとし生ける者達と共に、私達の命を支えてくれた今は亡き人達と共に、これから生まれ出るであろう者達と共に、帰りましょう、生命の肯定へ。死や崩壊すら再生への始まりなんです。』
私はこの舞踏馬鹿の独り言においては極力舞踏譜や踊りの技法的な事に触れず、むしろそれらが生まれ出てくる部分において語るようにと心がけています。いずれ近くそうした事についても書き記す必要 も有ると思います、それらには具体的な先生の物事への触れ方が秘められていますから。しかし現段階においては分量の多さと、やはり体に触れる事と同時に行わなければ誤解を招きかねない事、読む方の領域を狭める可能性が有る事を恐れたからです。そうした事は望む人にのみ提示できるよう準備をしなければと思っています。今回は舞踏の潜む場所のいくつかの事に触れられればと思います。
佐藤健さんとのインタビューで舞踏の稽古について、まさに先生だなという文章を見つけました。
「他の舞踊の場合、ある均一な方法論を外側から運動として与える、それに飼いならすわけです。そうじゃなくて私のは、はぐれている自分を熟視させる、逆なんですね、酷い事も言いますよ。やれって言った事はやるなって言っている事だと分からないのか、それでやれって言ってる意味が俺はやるなって言ってるんだよ、でもやるなって言ってる事を信じるな」
先生は体がある意味に収まってしまう事を嫌っていました。しかしただ無意味という事を目的にするのではなく、間という事を大事にされていたと思うのです。『形とは命に追いすがってくるもの』と言う大野先生の言葉に対し「命は形に追いすがらなければならない」と返す、この二つの言葉の間に生まれる世界。
「間とは関係の場です、間の付いた言葉をよく読むと面白いですね、間抜け、間違い、間が悪い、でも一番良いのは間腐れ、これは良いですね、未分化な根源的な間が腐っていく、それが舞踏です」「間をいかに持っているかで踊りが決まってくるんです。闇と光、死と生とかこの間を遊ぶんです」
稽古でも「まるで舞い上がる様に落下するんです、落下する様に舞い上がるんですよ」「立つ事は崩れる事で、崩れる事は立つ事なんです」
「私は風の動きに番号をふる事が出来るんです」とおっしゃって5つの形を振り付けられました。「この5つの形が大事なのではありません、1から2、2から3、この間が大事なんですそれを得る為に5つの形を正確にやるんです」
多くの踊りの中に相対立する要素を体の中に持ち、その比率や混濁の具合を変化させていきました、時にはその二つの要素がしっかり抱き合う事も有るんです。
「幽霊は明るさと暗さの間に溶ける」
「時間と空間を混ぜると幽霊になる」
「深くかつ浅く沈潜する」
「死んだ人ほど死者から遠ざかっている者は居ない」(死者には命も含んでいなければならないから)
最初に講習会を受けた時の言葉を少し書いてみます。
「肉体の地平線は何処か、今は溶けかかっている」
「今回の稽古は病院、医者無しの」
「私の悪い性質、暗いものに抱きすくめられる」
「人間は一人ぼっちにはなれない」
「記憶は夢、夢のもとを彷徨っている」
「自分の死がまだ信じられないように生きている」
「私は楽しい時に踊らない、楽しい事が終わるのが恐ろしい」
「面白い事は腹いっぱいになりすぐ終わってしまうが、嫌な事に固執すると延々と魅惑的世界が続く」
「物を始めた時もう終わりに着いている、その失った間、地平線を取り戻すのが舞踏」
「人間はもう駄目だと思った時、凛として咲く野の花(舞踏)になっている」「幻はもともと形が無いのだから消え去りもしない」
「花はポーッと咲いている、鐘はボーンとなる、そうした体の在り方」
「今回の稽古のテーマ、生と死との入れ替わり」
「眠り、落下、ぐらつき、花など近い物に私の事を考えてよなどと考え出す」
「体で記憶する」
「夢とは意味の無い無知の言葉、何かを語っている」
「現在は物質から語られ始めている」
「脳とは蚊帳がたるんでいて、それが風に揺られるように確信を持った姿ではいない、しかし強く反省する場合がある」
「夜とは夜生きている物にもたれているだけではないのか、はっきりした輪郭を自分に保てない」
「夢に見た人達を夜思っていたのが舞踏の発端だった」
「水と鏡は同じ、鏡の中の私は溺れている」
「私は隠れたかった落ち着くから、自然というのは隠れているのではないか、舞踏は隠れる事」
「夢に逃げるのではなく、夢と現実は同一のもの」
「夢を見た状態ではなく、夢の中へ」
「生きている事にしっかり根付いてないと、さらわれやすい」
「余談(残された自分)が私を尾行してくる」
最初の講習会だけは4日間という短い物でした、しだいに長期化され頻繁に行われましたが、講習会の冒頭は先生の語りから始まりました、一言一言が魅惑的で先生の視線は絶えず私達の体を突き通し続けます、先生の語りは早く、筆記しきれないものでしたが、今回載せた物はかろうじて筆記出来た中の一つの固まりです。理解するという事より具体的な言葉と言葉の間から寄せ来る波は私達の体を圧倒し続け、この語る姿は舞踏を踊る姿その物でした。踊らなくとも踊っている、舞踏と生活は同じ物なんですよと現して下さったのだと思っています。久能さんのノートに私が書き落としていた言葉を見つけました。
「考える事の前と考える事の後が舞踏の生まれる場所であって、考える事の中では舞踏は生まれない」
舞踏馬鹿の独り言 Ⅸ
正朔
空っぽの体 Ⅱ、東北歌舞伎2の頃、
(「」内は土方先生の言場です)
先日8日間の海外からの受講生を多く含んだ集中ワークショップを行い、そうした方々も参加し予想以上に多くの方々が土方巽研究会に集まられトークや質疑応答も終えてみて、やはり基本的な部分を再度書かせて頂きます。本来体に教え込まれた事を言語化するにあたり、肉体としての言語を使い、踊りとしての文章をと心がけていますが、私の無能さも有り、言場が体からはぐれて受けとめられる事を恐れるからです。
研究会では『空っぽの体という事が今一つ理解出来ない、空っぽになってしまったら踊りや作品をどうやって作れるのか?』
という質問が有りました。普通に考えれば当然の質問と思います。しかし、この当然と思われている意識と体の関わり様、立ち位置を変える事が舞踏の出発点だと思っています。踊り手は体がキャンバスです、器として考えても同様です。器を空にしなければ新たな物を入れられないか、あるいは異物に成ってしまいます、百パーセント空にしなければいけないのです。そうして初めて感覚が鋭敏な体に成れるのです。
『自己に執着すればする程、人は真の自己を失う。自己を無くせば無くす程、人はその人自身に成る』
『認識の所作とは反対の所作が芸術の所作という事になります。芸術家は認識する者ではありません、芸術は今ここで最も広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです』
これらはミヒャエルエンデからの引用です。ある高名な写真家がインタビューで
『シャッターを押す瞬間の最大の敵は私自身です。今この目の前にある美しい風景に私が私自身という色を付けてしまう事が最も恐ろしいのです』
突然空っぽになれと言われても難しいと思われるでしょうが、実は日常一般の方がいくらでも行っているのです。『我を忘れて』『我を失い』という言葉が有りますよね、一心に何物かを見続ける子供の後姿、望郷や恋愛に立ち尽くす姿、彼らは体から意識が解き放されているのです。災害に逃げ惑う人々の体、極限近く疲労した体、夢中になって興味に翻弄される体、そして細かな作り物を作る職人さんの体、こうした職人さん達が作品を見つめる様に、自分自身の体やそこに起きている事を見つめ続ける意識の在り方。
「自分を客体として扱えるようになる。自分を自分が客観的に振付ける。自分を舞台に花のようにいけてみる」
そうした意識の在り方を俯瞰した目と私達は呼んでいます。
テレビでスポーツ選手の体の状態を見た時、思わず見入ってしまった事が二度有ります。知覚が完全に開ききり、肉体者としての嘘偽りの無い動きが的確に繰り出され続けます。終了後魂がその体にどう帰還して良いか困惑しながらも寄り添っている、そういう姿が有りました。ゾーン体験という物はひょっとして私達と近い所に有るのではと思っています。忙しい体の中に意識の居所は無いのです。意識が肉体を支配する事からの別離、そうする事により器としての体は鋭敏になり、意識との新しい関係を結ぶ事が出来るのです。
私達は空っぽの体に成れてから他の稽古に入るのではなく、これは全ての要素において必要な事であり、やはり容易に修得出来る事ではない為、様々な舞踏譜を繰り返し時間をかけて稽古をする間に並行して体得していきました。しかし、先にも申し上げたように、本来誰もが出来る事で、私達も誰もが早い段階で出来る時が有りました。しかし、持続する事が難しいのです。元の意識の立ち位置へ帰ろうとする欲望を持っている事をよくよく知り、すっかり諦めきる事が重要です。どの様な状態が悪くどの様な状態が良いのか、体で知る事が出来れば、自然と体得出来るのです。
「経験より体験を大事にする」
「体を開く事、食べられる事、体を明け渡す事」
空っぽになった体が為すのでは無く為されるから動く、
「だまされ易い注意力を維持せよ、無目的、私を食べて下さい」
「舞踏とは集中では無く、拡散された集中力を持続せよ」
「たくさんの密度を持った方が良い」
ワークショップでは様々な知覚、空間からの関わり、材質の違い、強度の違い、肉体における距離の測定、そして何物かに成る稽古、その何物かが居る風土をも帯び、更にその何物かとはおおよそ関係の無い様な要素を細かく帯びる事により何物かに成っていく稽古。理解では無く本当の事として受け入れる体の在り方。
「舞台の上で転んだらハッと驚くでしょう、百回転んだら百回驚けなければ駄目なんだよ」
こうした様々な稽古を受け、ワークショップの終わりには、その日習った要素を使い、テーマを与えられ即興を踊りました。先日の研究会でのトークでその話で盛り上がった時、聴講者の方から第二の質問を頂きました。
『ワークショップで行われている即興と作品における振り付けはどの様な関係にあったのでしょうか?』
それはある意味不自由な状態を体に纏うわけですが、そうした中でも何物かであろうとし続ける事により、自由に動ける体ではけして出会えない物と出会い、時には体内に入り込み、体は体で自分の知らない体に変貌していく状態を知覚し、空間すら変貌していくのを感じます。そうした舞踏体験を様々なバリエーションで味わう事により、通じの良い体、発火しやすい体、舞踏体にに近づく為に先生が丁寧に体に触れてくれた時間だったと思います。
公演ではそうした体に舞踏としての振り付けが行われます。
「即興が大事なのでは無く、即興性が大事なのだ」
作品という物を非常に大事にしていたのです。作品の為の振り付けは質量とも多くなり、緻密でスピードも早いものでした。けして失敗は許されません。東北歌舞伎2の初日、終演直後遠くのオペ室から楽屋へ向かい走ってくる先生の足音が近づいて来ます、激しくドアが開かれ、出のきっかけの遅れた女子を激しく叱りまくり、その女性は大声で泣き出してしまい、あまりの喧騒に客が誰も帰らなかったそうです。しかし、他の場面で更に大幅に遅れてしまった新人男性チームは総毛立つ思いで立ちすくんでいると、先生はゆっくりとこちらを振り返り、静かな声で
「どうしたの、僕ビックリしちゃった」
と言いゆっくりと近づいて来るのですが、先生の左右の黒目が外側に開いていて非常に危険な状態なのは誰もが感じました。すると何にも悪くない和栗さんが割って入り
『私が間違えました』と言ってくれ
「お前が間違えただと」嘘をつけという風に一睨みし先生は去っていきました。その夜稽古場で寝ていると、深夜突然先生が駆け下りてきて、明け方まで振り直しが続き、翌日劇場でも新しく振り直しが続き、本番中でも照明きっかけが変わりました。本番の濁流の中、アンテナを張り続けていなければ何が起こるか分かりません。
後日先生が大切な物を扱うように、その年の6回の公演について
「私はこうして試作を繰り返してね、それぞれの作品を薄くスライスしていき、良い所と良い所をくっつけてね作品をつくるんです。私はいつからか出来るだけ細い物、小さい物、薄い物、希薄な物にこだわってきました。その中にはめくるめく様な深い物、大きな世界が有るんです。でもね、なんか最近、又野卑な踊りが踊りたいなーと思うんです」
翌々年、銀座セゾン劇場のこけら落としの公演に大野先生始め舞踏家を総結集し、自らも風神雷神を踊るんだと嬉しそうに語っていました。恐ろしい冬が来る事を誰も知らず、それはまだ夏を迎える前の頃でした。
舞踏馬鹿の独り言Ⅷ
正朔
肉体の闇、肉体の中へ、
( 「」内は土方先生の言葉です)
つい先日パリ、ロンドン、ベルリンでの長岡ゆりとの公演、ワークショップツアーから帰ってきたばかりです。英語の出来ない私は、多くの負担を彼女に負わせてしまいましたが、彼女のバランス感覚の取れた配慮と適切な通訳、そして彼女の踊りにより公演ワークショップ共に好評の内に終える事が出来、ワークショップ最終日にいたっては五日間重い集中力を持続し表情をあまり出さないベルリンの講習生達が、サンキューは日本語で何と言うんだという声があがり、ありがとうの連呼がまるでカーテンコールの様にいつ終わるのかと思う程続き、熱いハグの連続で胸詰まる思いでした。他の地でのワークショップも含め受講生達の真剣さ、そしてインクが紙に染みていく様な吸収力、そして現れ出でた結果を見た時、舞踏は日本人のみの問題では無く、やはり人間の問題なのだなと痛感しました。私はワークショップに於いて、かつて先生のワークショップで味わった感動を私なりに受講生の皆さんにわずかでも感じていただけたならと願っています。具体的には、すっかり日常の中で教え込まれた動きに飼いならされてしまった体をほごしてはぐれさせてやり、自分の体に初対面させてあげる事。これはイメージを与え自由にさせてあげる事だけで出来る事では無く、むしろ最初は壁を立て、ある種の拘束もし、追い立てる必要があると思っています。そうした場で様々な出会いを重ねる事によって本人が気付くという事を願っているのです。
ワークショップを行う側には最低二つの条件が必要だと思っています。一つは見本が見せられる事、本人でなくとも先生の時は第二の師匠が行っていました。現在は私と長岡ゆりが行っています。二つ目は、受講生の体に起こっている事を見てとれる事、私達は何物かに成るという稽古を重ねてきた為に、他者の体が私達の体に入ってきてしまいます。そうした自分の体を感じ他者の体に起きている事を知るのです。先生がワークショップの後「私でもね、この何十人もの体を見る事は疲れるんですよ」と言っていましたが今は大変よく分かります。
今回公演と集中ワークショップを繰り返す間に、あらためてその重要性を強く感じた事について書かせていただきます。出(誕生)と没(消滅)の没、光と闇なら闇の側の問題です。そこをしっかりやりきらなければ、世界として捉えていなければ、生まれ出てくる物はひどく弱々しいか生まれ出る事は出来ないという事です。
適切な例えになるか不安ですが、弓道場に弓が置かれています、置かれた弓はただの物質です普通の体だと思って下さい。打ち手が弓を持ち上げ立った時、弓は始めて弓に成ります、空っぽの体に成った状態です。これから体や空間に生まれてくる物を矢と思って下さい。そして弦を引く、この引かれた状態を導く物支える物包み込む背景に潜み立つ物達の事です。これは直線的な例えですが、千本万本の矢を同時に引かねばならない事も有る舞踏家として、空間における問題としても捉えていただければと思います。目盛りをつけたならゼロでは無く巨大なマイナスに拡がる世界、体を消していく、隠れる、何処へ、どの様に、肉体という闇の中へ。この問題は私には大き過ぎる問題ですが少なくとも心情や観念などでどうにかできるような問題でない事だけは知っています。そしてそれは現れ出てくる物に当然関係し、寄り添い、支え、時にはその身に包み隠す事もあるでしょう。
「闇と言うとすぐ重苦しく感じる人がいますが、闇にも光や艶が有るんです。漆とかそうでしょう、暗黒舞踏というのは反語なんですよ」
「光は闇という母親の背中から生まれてきた、なのにいかがわしい光が闇を追い出す、その光を追い出さなければならない、震えている闇をそっと抱いてやりなさい、それは死ぬという事、誕生とか死を隔離する事によって生が青ざめてきている、弱ってきている」この後に、
「光とは情報の事ですよ、今は情報に対する期待ばっかりが増えている」言葉だけに頼ると誤解を起こしかねませんが、肉体と情報、ひじょうに象徴的だと思います。
「死と生を区分してはいけない。闇と光、生と死の融合へと向う」
「自分の死がまだ信じられないように生きている」
「肉体は滅びていくがゆえに形があるのではないのか、死者がこの肉体に棲まなければいけない」
「生きているという事は三割くらいの死を含んでいる事、舞踏もしかり」
「死んだ人ほど死者から遠ざかっているものは無い」
「目に見えない物が半分有るから見える物が有るのだ」
光の在り方として
「光がすがっている、にじんでいる、溶けていく、吊られている、とか色々有るでしょう」
闇という母親に抱かれた光の在り方ですよね、光が光だけで存在しているのでは無いという事です。
闇の中の手の甲に一粒の光が誕生し蛍の様に浮遊し始めたとして、その一粒の光が誕生する直前、普通の体は有り得ない、闇に没しているはず。何物かがその体に誕生する為には、誕生の仕方は様々ですが、その体は消えていなければならない肉体という闇の中へ。
「無いという言葉を用いるけれど、有るの反対は有らない、この中に舞踏が潜んでいる。私は隠れたかった、落ち着くから、自然とは隠れているのではないですか、舞踏も隠れている。隠れているキノコを捜すように捜すんですよ」「無一物が(何も無い物、例えばあの世かもしれない)滝に打たれているような物を見なければ、その裏側の無尽蔵な世界には行けない」
肉体の闇に通低する言葉として体の中へという言葉が有ります。私はこの言葉が舞踏への誤解を最も生んだ言葉ではと思っています、(心情的内部、観念的内部などへの曲解)
「舞踏は肉体の拡張をはかる」
「昔の人(戦前の人)は内側が外側だった。昔の人は内部から歩いていた」
「私達は分からない所から生まれてる、永遠は体内に在る」
「自分の体に彷徨いこみ、自分を誘拐する」
「自分の体を立ち聞きする、自分は宇宙で一番遠い存在」
「自分の体の中に異国を感じる」
「私の中の旅、内側で外側を包む」
「臓器感覚が膨らみ私を越えて拡がる」
「私達の内部(臓器感覚)は空間にぶら下がっている」
「体の内部が外部で外部が内部なんですよ(靴下を裏表ひっくり返す様に考えて下さい)胃も腸も脳も目玉もみんなこの空間にぶら下がっている、血管や神経がびっしり張り巡らされているんです。外部は私の体なんです、そして内部こそが私にとってもっとも未知の謎の世界なんです、そこに梯子をかけてね私は降りていくんですよ」
「全ては体の内側に有るんでね、外部に頼って暴れても何も得られないんです、表現しようとするのでは無く、じっと内部を辿るんですよ。舞踏を行うのに真に必要なのは内部の世界へ入っていき、そこに身を置き続ける勇気と偏執的にそこで採集する性質と、そういった事を組み立て練磨していく知性です」
「私は出て行く、私の中へ」
「私達を生んだものを知る、それが舞踏」