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正朔ー舞踏 SEISAKU-BUTOH DANCE

舞踏馬鹿の独り言

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舞踏馬鹿の独り言Ⅹ

舞踏馬鹿の独り言Ⅹ
                                           正朔
    舞踏の潜む場所
                                ( 「」内は土方先生の言葉です )

 私事ですが一昨年の震災後の9月に行ったDance Medium公演「帰ル」の再演が来年2月、シアターⅩで行われる事が決まりました。この作品は昨年4月長岡ゆりと共に舞踊批評家協会賞を頂いた作品です。この作品を作る動機を産んだ状況は現在もなんら変わらないままである事、多くの人達に伝えたかった事が限られたお客様にしか見ていただけなかった事を残念に思い再演を望み続けていましたが、これだけ時間がかかってしまいました。当時どこにも掲載しませんでしたが、作品作りへの思いを書き記した文章をここに載せます。
 『 「帰ル」 
 人は苦境に追い込まれた時現実よりもその不安に苛まれ、自らその窓を塞ぎその魂を崩壊させていく事を何度も体験しました。しかし、これが集団となると、その枝葉は絡まり合い加速度的にその強度深さを増し、窓を開けようにも開けられず集団で奈落の底に落ちていく事になりかねません。3・11の震災、原発の問題の後、世界不況も絡み合った閉塞感。それぞれが自らの足で生きるという方向へ踏み出す事を強く提示しなければ崩壊への方向へ人々が穂先を向けかねないのではという危機感からこの作品を作りました。歴史を振り返り見れば、天災人災の繰り返しです。人の一生においても生老病死愛別離苦、平坦な生涯の方など有り得ないでしょう。私の師、土方巽は言いました
「原爆、そんなもん毎日落ちているじゃないか」
命がこの世に置かれるという事は生死、聖邪、喜びと苦しみなど様々な相対立した要素の混濁した中に立たなければいけません。一つの極の側に立つ事など有り得ないし、そう思い込んだとしても、それは一面的な見方にしかすぎません。今回起きた事が特別な事では無く、生きるという事がそもそもどういう物なのかを極端に露呈された事件だと思っています。舞踏家の使命として舞台上において、この世という現実に体を開き自分達が存在しているその地点から生きるという誠実な一歩を歩む事により、ご覧頂いたお客様へ、より生きる事への共振がお伝えできればと願っています。
  「帰ル」、何処へ、それは命が生まれでた所かもしれません、それは至るべき未来かもしれません、それは存在に根差したこの生きようとして一歩踏み出すこの瞬間かもしれません。帰ルべき所へ。人間はけして独りぼっちにはなれないんです。生きとし生ける者の命は全て祝福されているんです。生きとし生ける者達と共に、私達の命を支えてくれた今は亡き人達と共に、これから生まれ出るであろう者達と共に、帰りましょう、生命の肯定へ。死や崩壊すら再生への始まりなんです。』
 私はこの舞踏馬鹿の独り言においては極力舞踏譜や踊りの技法的な事に触れず、むしろそれらが生まれ出てくる部分において語るようにと心がけています。いずれ近くそうした事についても書き記す必要 も有ると思います、それらには具体的な先生の物事への触れ方が秘められていますから。しかし現段階においては分量の多さと、やはり体に触れる事と同時に行わなければ誤解を招きかねない事、読む方の領域を狭める可能性が有る事を恐れたからです。そうした事は望む人にのみ提示できるよう準備をしなければと思っています。今回は舞踏の潜む場所のいくつかの事に触れられればと思います。
 佐藤健さんとのインタビューで舞踏の稽古について、まさに先生だなという文章を見つけました。
「他の舞踊の場合、ある均一な方法論を外側から運動として与える、それに飼いならすわけです。そうじゃなくて私のは、はぐれている自分を熟視させる、逆なんですね、酷い事も言いますよ。やれって言った事はやるなって言っている事だと分からないのか、それでやれって言ってる意味が俺はやるなって言ってるんだよ、でもやるなって言ってる事を信じるな」
先生は体がある意味に収まってしまう事を嫌っていました。しかしただ無意味という事を目的にするのではなく、間という事を大事にされていたと思うのです。『形とは命に追いすがってくるもの』と言う大野先生の言葉に対し「命は形に追いすがらなければならない」と返す、この二つの言葉の間に生まれる世界。
「間とは関係の場です、間の付いた言葉をよく読むと面白いですね、間抜け、間違い、間が悪い、でも一番良いのは間腐れ、これは良いですね、未分化な根源的な間が腐っていく、それが舞踏です」「間をいかに持っているかで踊りが決まってくるんです。闇と光、死と生とかこの間を遊ぶんです」
稽古でも「まるで舞い上がる様に落下するんです、落下する様に舞い上がるんですよ」「立つ事は崩れる事で、崩れる事は立つ事なんです」
「私は風の動きに番号をふる事が出来るんです」とおっしゃって5つの形を振り付けられました。「この5つの形が大事なのではありません、1から2、2から3、この間が大事なんですそれを得る為に5つの形を正確にやるんです」
多くの踊りの中に相対立する要素を体の中に持ち、その比率や混濁の具合を変化させていきました、時にはその二つの要素がしっかり抱き合う事も有るんです。
「幽霊は明るさと暗さの間に溶ける」
「時間と空間を混ぜると幽霊になる」
「深くかつ浅く沈潜する」
「死んだ人ほど死者から遠ざかっている者は居ない」(死者には命も含んでいなければならないから)
 最初に講習会を受けた時の言葉を少し書いてみます。
「肉体の地平線は何処か、今は溶けかかっている」
「今回の稽古は病院、医者無しの」
「私の悪い性質、暗いものに抱きすくめられる」
「人間は一人ぼっちにはなれない」
「記憶は夢、夢のもとを彷徨っている」
「自分の死がまだ信じられないように生きている」
「私は楽しい時に踊らない、楽しい事が終わるのが恐ろしい」
「面白い事は腹いっぱいになりすぐ終わってしまうが、嫌な事に固執すると延々と魅惑的世界が続く」
「物を始めた時もう終わりに着いている、その失った間、地平線を取り戻すのが舞踏」
「人間はもう駄目だと思った時、凛として咲く野の花(舞踏)になっている」「幻はもともと形が無いのだから消え去りもしない」
「花はポーッと咲いている、鐘はボーンとなる、そうした体の在り方」
「今回の稽古のテーマ、生と死との入れ替わり」
「眠り、落下、ぐらつき、花など近い物に私の事を考えてよなどと考え出す」
「体で記憶する」
「夢とは意味の無い無知の言葉、何かを語っている」
「現在は物質から語られ始めている」
「脳とは蚊帳がたるんでいて、それが風に揺られるように確信を持った姿ではいない、しかし強く反省する場合がある」
「夜とは夜生きている物にもたれているだけではないのか、はっきりした輪郭を自分に保てない」
「夢に見た人達を夜思っていたのが舞踏の発端だった」
「水と鏡は同じ、鏡の中の私は溺れている」
「私は隠れたかった落ち着くから、自然というのは隠れているのではないか、舞踏は隠れる事」
「夢に逃げるのではなく、夢と現実は同一のもの」
「夢を見た状態ではなく、夢の中へ」
「生きている事にしっかり根付いてないと、さらわれやすい」
「余談(残された自分)が私を尾行してくる」
 最初の講習会だけは4日間という短い物でした、しだいに長期化され頻繁に行われましたが、講習会の冒頭は先生の語りから始まりました、一言一言が魅惑的で先生の視線は絶えず私達の体を突き通し続けます、先生の語りは早く、筆記しきれないものでしたが、今回載せた物はかろうじて筆記出来た中の一つの固まりです。理解するという事より具体的な言葉と言葉の間から寄せ来る波は私達の体を圧倒し続け、この語る姿は舞踏を踊る姿その物でした。踊らなくとも踊っている、舞踏と生活は同じ物なんですよと現して下さったのだと思っています。久能さんのノートに私が書き落としていた言葉を見つけました。
 「考える事の前と考える事の後が舞踏の生まれる場所であって、考える事の中では舞踏は生まれない」

 

















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