舞踏馬鹿の独り言
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舞踏馬鹿の独り言 ⅩⅠ
正朔
ご挨拶と最後のワークショップでの言葉を中心に
( 「 」内は土方先生の言葉です )
舞踏馬鹿の独り言の連載も次回でちょうど二年になります。秦さんから連載のお話しを頂いた際に二年は書いて欲しいとの事だった事と、書けば書くほど書かねばならない事の深度が深まり、広さも増していくにつけ、先生から直接頂いた言葉によるコラージュとしての形態で、肉体としての言語を使い、踊りとしての文章を書くというスピード感、正確さを守るという責務に対して誤解を招きかねない文章(言葉が先生のままでも)が有ってはならないという思いがつのり、もう一度資料をよく見直す時間がしばらく頂きたく、次回でお休みさせていただきます。長い間、私のような者の書く(実質的には先生の言葉の引用なのですが)お読み頂き有り難うございました。たまたま私が先生の教えを受けた時期ワークショップが非常に多く、始まりは先生の言葉からいつも始まりました。受講中にも先生が「私は本来、体に直接教えるのですが、今回はやむをえず言葉を多用します」と言われ、原稿用紙に書かれた言葉を浴びせかける様に踊る様に語って下さった事と、お話しを聞かせて頂く事がかなり多かった事、そして私が筆記する習慣が有り、何故か最初から技術的な事とこうした言葉を分けて書く癖が有り、それを三十年何度も読み返し、白桃房の十年第二の師匠による繰り返された検証により深く脳裏に刻まれました。私にしても先生のおっしゃるように、具体的に体に接する事によってしか、その細部はお伝えできませんが、これらの言葉を公開できた事は至福の至りです。思えば秦さんに通信に書かないかと言われた時、私ごときがと思い何年か過ぎ、2011年三上賀代さん主宰のとりふね舞踏舎夏期集中ワークショップに講師として呼ばれた時、やはりいらしていた合田成男さんと二人だけで長く話しをし
『君みたいにね、実際土方の現場で踊っていた人間が、もっとみんなに話さなければいけないんだ、黙ってちゃ駄目なんだ』
と言われ、その後秦さんから又お誘いを受け、書かせていただく事になりました。秦さん、合田さん、三上さん、そして読んで頂いた皆さん有り難うございました。今後もう一度資料をよく見直し、視界を大きく拡げ舞踏への思いを書ける機会が有ればと思います。私の今まで書いた文章は江古田文学の土方巽追悼の文章以外全てブログに載せていますのでご興味の有る方はそちらもご覧下さい。
今回は中期も有りますが、最後の集中ワークショップ(11月後半)を中心に技術と肉体の関わり様、これは技術の否定では無く、技術礼賛の否定です、同じく、技術否定礼賛の否定でもあります。体を活性化するメカニズム、体の内外の問題、肉体における距離の測定、また位置の確認そして何処へ向かうのか、こうした事をワークショップでは具体的に体で行う事で進められました。
「体を過酷に扱う事によって、体を活性化する」
「テーマを拡げ過ぎるな、二つか三つを丹念に繰り返せば、めくるめく様な世界が作れる」
「何処を強調するかしっかりとらえる、ただ技術を追っかけない」「技術が再生するのは可視的でなければならない、単なる技術は役に立たない」
「思いにただふけってはいけない、しっかりと何をしているか認知する」
「エクスタシーはそうとう下品」
「歩行というものがどういきるかというのは、その人の活性化、でないと単なる構成上の魔術師になってしまう」
「技術修得ではなく、覚えた事をいかに早く忘れるかを修得する」
「好きな事にばかり熱中せず、嫌な事に熱中すると魅惑的な世界が拡がる」
「たくさん覚えると能力が潰される」
「身振り手振りで説明する事はない、手や体に見つめ直されてしまう」
「訳の分からないものを(生命とか霊とか)丹念に取り上げてみる」
「見慣れぬ物に付きあっていないと、単なるオブジェ化してしまったり、組織化された物になってしまう。嫌な物に熱中する様にしてみる、ぐったりとした音響楽」
「恐怖さえ有れば踊れる。表現するのは止め、客観的に見る。舞踏家は恐怖心を沢山持っていなければ」
「恐怖という物を外在化する事が出来るはずだ、鬼の面、物質化出来る」
「物の崩壊、蓄える事の空しさを知っている。破壊する側が舞踏、何を破壊するか、まず自分から」
「霊的な物の見方、普通の物の見方は教えられた世界」
「夢を見た状態ではなく夢の中へ」
「破壊の総和の為に」
「もう一つの時間、分かりにくい曖昧な辺境ぎりぎりを歩く」
「物質の生命にピタッと寄り添う女性が綺麗だ」
「疲れとか疲労に近い所に煙が有る」
「技術より何処から声が発しているのか、その技術が何処から出て来るのかを採集する」
「前後とか左右とかいう事からまず一歩退いた方が良い」
「道とは方法、体が滅びていく時初めて見えてくる。こちらからあちらに彷徨う、あちらからこちらに彷徨いこむ、こちらとあちらは一つの物」
「踊る者と見る者との間で何かが禁止される。それを犯す喜び、このままじゃ自滅してしまう、自滅すれば良い、そこから始まる、曖昧になってしまう、曖昧さこそ母体、曖昧さを抱いてやる」
「私にとって東北とは私の肉体なのだ、土俗とは何処にだって根付く、自分の生きている所を大事にした方が良い」
「観念とは遠い所にいた方が良い」
「自分の中に異国を感じる、私の中の旅、内側で外側を包む」「柔らかい手が私を抑圧してくる、舞踏がまずく合理化されていく」
「人間の形態から遠く離れて、ある奇妙な原型への旅」
「まず自分が汚れる事、そして観客の汚れ全てを引き受ける事、存在に揺さぶられた世界、アルトー、ニジンスキー」
「私とは一個の汚れ物である、更に汚れを怪物的に育てる事へ」
「兎、自分自身を聞いている」
「カオスをそのまま置かず変質させる」
「存在が複雑骨折している、何も成り立ち不可能」
「見えない衝突に常にさいなまれている」
「世の中が荒廃していくのを喜んでいる、生き生きしてくるから」「イメージとは一個の牢獄にすぎない」
「生の波動に密接な物を作れ」
「空間は退屈している、そこに私達が輸血してあげる、そうすると逆に輸血される、錯乱」
「全て自分で決めなければならない、触ってくれるな」
「イメージの介在出来ない所に追いやる」
「あらゆる限りの無知と悲惨を現出する」
「体の中は様々に皮膚が有り区切っている、隔てている物は何なのか、薄いので破れる、皮膚は破れる一過程にすぎない。皮膚の内側に自分を閉じたまま和解しようとする。本当は破れたいのに、舞踏は破れていきたい、熱い忍耐で武装して街々(体内)に出て行くのだ」
「あるメソッドなどを分析していく、その中に少量の観念が入っていると、そういう所には有機的な物は貫通していかない」
「舞踏は酵母の様な物になり、内部から孵化していく、酵母の様に現実に接触していく、欧米人が見て、今まで持っていた身体が溶けていく、入っていくという事」
「イメージとこちら側をぶらしていく」
「自分達が徹底して不自由な所に落ちていくと二人の人間は和解できる、溶けられる」
「空間が凝固して爆発的に固まった顔」
「人間にはグロテスクな部分は一つも無い、有るとしたら時間」「無際限な空間を求めているが、あまり拡がると届かなくなり泣いてしまう」
「限界ギリギリまで接近すると、範囲を超えた所が見えて来る」「歪められた、ぶれた距離の測定、距離を歪めてみる、ぶらしてみる、そうして初めて見える物が有る」
「希薄な展開、どこまで希薄になれるか」
「薄い揺れが空気に混じって、そこに肉体の衣装もしまってしまいなさい」
「感情、そんな物は対象によって起こされた単なる一種のエネルギーじゃないのか」
「登山家が絶壁を登る時、ふっと見上げると巨大な物の一部にしがみついている、私達は巨大な円の中心から遠い所に居ると気付き始める、確かにそこに居るけど、巨大な物の一部、遠い所の木霊であると感じ始める、遠い所から離れている自分の位置に気付く、中心の中に入っていきたいと思ってもそういう意思から離れなきゃならない。遠くに退いていく時に原寸大のフォルムを見る事が出来る」
「ラスコーの模写は模写では無い、飢えと狩りの要請に導かれた、予習であり復習である」
「場所として人体を見る」
「生は死の中まで生き延びて、植物の中を生きている、内でも外でも無い、道の始まる所、交わる所が無いと活性化しない」
「仮面は光、今の光はほとんど夜、夜から仮面を剥ぎ取らなければならない」
「生と死は相対する物では無く、一本の草の双子の花だ、生の礼賛はそれが真に深く正しければ死の礼賛だ、死を否定する文明は生を否定する」
「時として二つの波、それは身体、時として二つの石、それは身体(オクタビオ・パス)」
「面白い事は腹いっぱいになり終わるが、嫌な事に固執すると延々と魅惑的な世界が続く」
「無知と悲惨に美はかなわない、感情などから完全に離れている」
「死、完全なる拒絶、死は死に続ける」
何度も読んでいますがこの最後のワークショップの言葉の力は恐ろしい力を感じます、実践した踊りの稽古も今でも謎を含む私の宝です。最後に中期の頃の言葉ですが先生の立居地を示す大好きな言葉です。
「踊りの究極は鐘の音、ボーン(実際に鳴らす)全て均一に鳴り響く、水晶の中で金の鈴を鳴らす、(実際に鳴らす)寂滅の境地ですね、これらは天上界の踊り、でも、舞踏は生活、現実から離れられない、人間が光だから」
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