舞踏馬鹿の独り言
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舞踏馬鹿の独り言Ⅷ
正朔
肉体の闇、肉体の中へ、
( 「」内は土方先生の言葉です)
つい先日パリ、ロンドン、ベルリンでの長岡ゆりとの公演、ワークショップツアーから帰ってきたばかりです。英語の出来ない私は、多くの負担を彼女に負わせてしまいましたが、彼女のバランス感覚の取れた配慮と適切な通訳、そして彼女の踊りにより公演ワークショップ共に好評の内に終える事が出来、ワークショップ最終日にいたっては五日間重い集中力を持続し表情をあまり出さないベルリンの講習生達が、サンキューは日本語で何と言うんだという声があがり、ありがとうの連呼がまるでカーテンコールの様にいつ終わるのかと思う程続き、熱いハグの連続で胸詰まる思いでした。他の地でのワークショップも含め受講生達の真剣さ、そしてインクが紙に染みていく様な吸収力、そして現れ出でた結果を見た時、舞踏は日本人のみの問題では無く、やはり人間の問題なのだなと痛感しました。私はワークショップに於いて、かつて先生のワークショップで味わった感動を私なりに受講生の皆さんにわずかでも感じていただけたならと願っています。具体的には、すっかり日常の中で教え込まれた動きに飼いならされてしまった体をほごしてはぐれさせてやり、自分の体に初対面させてあげる事。これはイメージを与え自由にさせてあげる事だけで出来る事では無く、むしろ最初は壁を立て、ある種の拘束もし、追い立てる必要があると思っています。そうした場で様々な出会いを重ねる事によって本人が気付くという事を願っているのです。
ワークショップを行う側には最低二つの条件が必要だと思っています。一つは見本が見せられる事、本人でなくとも先生の時は第二の師匠が行っていました。現在は私と長岡ゆりが行っています。二つ目は、受講生の体に起こっている事を見てとれる事、私達は何物かに成るという稽古を重ねてきた為に、他者の体が私達の体に入ってきてしまいます。そうした自分の体を感じ他者の体に起きている事を知るのです。先生がワークショップの後「私でもね、この何十人もの体を見る事は疲れるんですよ」と言っていましたが今は大変よく分かります。
今回公演と集中ワークショップを繰り返す間に、あらためてその重要性を強く感じた事について書かせていただきます。出(誕生)と没(消滅)の没、光と闇なら闇の側の問題です。そこをしっかりやりきらなければ、世界として捉えていなければ、生まれ出てくる物はひどく弱々しいか生まれ出る事は出来ないという事です。
適切な例えになるか不安ですが、弓道場に弓が置かれています、置かれた弓はただの物質です普通の体だと思って下さい。打ち手が弓を持ち上げ立った時、弓は始めて弓に成ります、空っぽの体に成った状態です。これから体や空間に生まれてくる物を矢と思って下さい。そして弦を引く、この引かれた状態を導く物支える物包み込む背景に潜み立つ物達の事です。これは直線的な例えですが、千本万本の矢を同時に引かねばならない事も有る舞踏家として、空間における問題としても捉えていただければと思います。目盛りをつけたならゼロでは無く巨大なマイナスに拡がる世界、体を消していく、隠れる、何処へ、どの様に、肉体という闇の中へ。この問題は私には大き過ぎる問題ですが少なくとも心情や観念などでどうにかできるような問題でない事だけは知っています。そしてそれは現れ出てくる物に当然関係し、寄り添い、支え、時にはその身に包み隠す事もあるでしょう。
「闇と言うとすぐ重苦しく感じる人がいますが、闇にも光や艶が有るんです。漆とかそうでしょう、暗黒舞踏というのは反語なんですよ」
「光は闇という母親の背中から生まれてきた、なのにいかがわしい光が闇を追い出す、その光を追い出さなければならない、震えている闇をそっと抱いてやりなさい、それは死ぬという事、誕生とか死を隔離する事によって生が青ざめてきている、弱ってきている」この後に、
「光とは情報の事ですよ、今は情報に対する期待ばっかりが増えている」言葉だけに頼ると誤解を起こしかねませんが、肉体と情報、ひじょうに象徴的だと思います。
「死と生を区分してはいけない。闇と光、生と死の融合へと向う」
「自分の死がまだ信じられないように生きている」
「肉体は滅びていくがゆえに形があるのではないのか、死者がこの肉体に棲まなければいけない」
「生きているという事は三割くらいの死を含んでいる事、舞踏もしかり」
「死んだ人ほど死者から遠ざかっているものは無い」
「目に見えない物が半分有るから見える物が有るのだ」
光の在り方として
「光がすがっている、にじんでいる、溶けていく、吊られている、とか色々有るでしょう」
闇という母親に抱かれた光の在り方ですよね、光が光だけで存在しているのでは無いという事です。
闇の中の手の甲に一粒の光が誕生し蛍の様に浮遊し始めたとして、その一粒の光が誕生する直前、普通の体は有り得ない、闇に没しているはず。何物かがその体に誕生する為には、誕生の仕方は様々ですが、その体は消えていなければならない肉体という闇の中へ。
「無いという言葉を用いるけれど、有るの反対は有らない、この中に舞踏が潜んでいる。私は隠れたかった、落ち着くから、自然とは隠れているのではないですか、舞踏も隠れている。隠れているキノコを捜すように捜すんですよ」「無一物が(何も無い物、例えばあの世かもしれない)滝に打たれているような物を見なければ、その裏側の無尽蔵な世界には行けない」
肉体の闇に通低する言葉として体の中へという言葉が有ります。私はこの言葉が舞踏への誤解を最も生んだ言葉ではと思っています、(心情的内部、観念的内部などへの曲解)
「舞踏は肉体の拡張をはかる」
「昔の人(戦前の人)は内側が外側だった。昔の人は内部から歩いていた」
「私達は分からない所から生まれてる、永遠は体内に在る」
「自分の体に彷徨いこみ、自分を誘拐する」
「自分の体を立ち聞きする、自分は宇宙で一番遠い存在」
「自分の体の中に異国を感じる」
「私の中の旅、内側で外側を包む」
「臓器感覚が膨らみ私を越えて拡がる」
「私達の内部(臓器感覚)は空間にぶら下がっている」
「体の内部が外部で外部が内部なんですよ(靴下を裏表ひっくり返す様に考えて下さい)胃も腸も脳も目玉もみんなこの空間にぶら下がっている、血管や神経がびっしり張り巡らされているんです。外部は私の体なんです、そして内部こそが私にとってもっとも未知の謎の世界なんです、そこに梯子をかけてね私は降りていくんですよ」
「全ては体の内側に有るんでね、外部に頼って暴れても何も得られないんです、表現しようとするのでは無く、じっと内部を辿るんですよ。舞踏を行うのに真に必要なのは内部の世界へ入っていき、そこに身を置き続ける勇気と偏執的にそこで採集する性質と、そういった事を組み立て練磨していく知性です」
「私は出て行く、私の中へ」
「私達を生んだものを知る、それが舞踏」
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