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正朔ー舞踏 SEISAKU-BUTOH DANCE

舞踏馬鹿の独り言

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舞踏馬鹿の独り言 ⅩⅡ

舞踏馬鹿の独り言 ⅩⅡ
                                                      正朔
    ご挨拶、思い出の言葉と最後の稽古の言葉など     (「」内は土方先生の言葉です)

 去る2月8日DanceMedium公演『帰ル』再演の二日目の準備をしている最中ロビーに出ると40年ぶりの大雪で外は雪と風が荒れ狂い、まるで北国の様でした。すぐに先生からのプレゼントだなと思いました。
「普通じゃ駄目だろう」
良い踊りが踊れるようにとプレゼントしてくれたんだなと思いました。あまりのキャンセルにお客様より出演者の方が多いのではと思いましたが、開演してみると昼も夜も予想以上の多くのお客様においで頂き、これほど感謝の思いで胸の詰まる公演はありませんでした。いらして頂いたお客様、本当に有難うございました。
 この舞踏馬鹿の独り言はこれで二年になりますが今回で休ませて頂きます。今後又書く事が有るとすれば、より具体的な事を書いていく必要があり、その方向、方法に対して判断つきかねる事が多くあるからです、言葉という物は恐ろしい物だという事です。この二年間書いた物を読んでみると、たった一つの事だけを言い続けていたんだなと思いました。意識と体の関係性を変える為に、本気で空っぽの体になる事、一分一厘残さず観念や感情を体から追い出す事、そして少なくとも踊りの最中には二度と入れない事、そうして初めて空の体になった時、様々な要素が出入りでき、体は敏感に作動出来るようになります。意識や感情が無くなるわけではなく、体との関係性が変わるだけなんですが、舞踏とはそこからしか始まらないと教えられ続けました。為すのでは無く、為される体になる。
 舞踏の採集といっても色々な方法が有りますが、その周辺の言葉をいくつか見つけてみました。
「私は稽古場に鏡を置きません、一つも無いでしょう、この壁をじっと見つめるんです、そうすると自分自身の姿がありありと映ってくる、鏡なんて必要無いんです」
「壁を撫でていると平面じゃない、毎日違うんです。それをこうして擦っていると何故かアーンと泣いてしまうんですね、摩擦によって感情が発生するんです、壁をずーっと撫でながら泣いている人がいるんです」
「踊りなんて何にでも習えるんです、自然の物を特にこういう風に指で潰すと、ポロポロカサカサする物が特に良いですね」
「アスベスト館の二階で手首を剃刀で切って、一階の稽古場の床にその血の雫が滴り落ちる音を耳を澄まして聞く様になってしまいますよ」
「トイレでの採集は良い、たくさん出来る」
「風呂に手間取る、半日かけて全身を洗えない、色々な採集が出来る、まるで何か大変な事をしてしまった様に終わった後、階段を這いつくばる様にして帰る」
「現実ほど面白いものはない、普通の生活の些細な行動を執拗に採集する、ぶれる、脱臼など、子供、幼児、病人、老人など」
「技術より、その技術が何処から出て来るのかを、何処から声が発しているのかを採集する」
 舞踏における普遍性に関わる言葉を少し、
「舞踏は舞台と生活を画期的に結びつけた」
「舞踏は生活そのままでは無く、生活の謎を解く方法」
東北歌舞伎計画のリハーサルの時、客席に凍りついた様に立ち尽くす掃除のおばさんがいました、声をかけると
『私は芸術なんて何も分からない、でもこの人達が素晴らしい事だけは私にでも分かる』
と興奮して叫びました。この時の恐ろしいまでの形相は、今でも私の表現への裏切ってはいけない指針の一つです。
「おかしな事をしている様ですが(舞踏表現)この方がずーっと本当の事でしょう」
先日の『帰ル』を見に来てくれた友人が
『舞踏は、ずっと分かりにくいものだと思っていた、でも今回の公演を見て、ここにいる様々な分からない物達が、全て自分の中に既にどれも有る物だと気付いたんだ、無理に分かろうとしなければ、全て体感出来た』
と言ってくれました。一般の方々と共有する普遍性の問題はけして安直に扱うものではない重要な問題だと思います。
 合田成男さんと二人で話しをした時、ある舞踏への願いを語られました。
『土方はどう思ってたんだろう』
同じ事を先生も言ってましたよと言うと
『私は嬉しくて涙が出そうだ』
とおっしゃった言葉
「卑俗な物が高貴な物と一緒になれないか、まだ舞踏で解決されてはいない」
先生の最後のワークショップの言葉です、合田さんとも4年くらい前の事です、全く解決など。
 先生との日常の話をいくつか書いてみます。ワークショップが終わると最後に暗転の中歩行し続けるのが慣例でした。歩行が終わると先生が既に居なくなっている日があります。そうで無い日は私達が更衣室で着替えていると外がやけに騒がしく、
「早くしなさい、出てきちゃうじゃないか」
と声がして出て行くと茣蓙が敷かれ酒が置かれていて
「まーっ、少しお酒も有る事だし、少し呑んでいかないかね」
そうした日は帰れないのですが、この差は後で知りました。先生の居ない日は暗転の内に二階に去り、しゃがみこみ頭を抱え、今日は駄目だったと悶絶していたそうです。どれだけ必死に私達に関わっていて下さったのか、上手くいけばどれほど喜んで下さったのか涙が出てしまいます。
「けち臭い奴に舞踏が出来るか」
先生は何でも人にあげてしまいます、形見分けに服を調べたら、いつも着ていた大島紬一着とシルクのスーツ一着しか無く、他はみんな上げてしまっていました、私の形見分けはパジャマの上着です、何処かにパジャマのズボンの人もいるんだろうなと思いました。
 稽古場にみんなで泊まると朝は「ビール買って来い」とビールです。先生は座を盛り上げる様に話し続けます、そうした折に
「あいつは狂ってる、気狂いだ、気狂いだ」
と大笑いされた事は何故か嬉しく覚えています。そうした中に第二の師匠が上がって来て、『あんた達いつまでいるの』と怒られ、まずいなと緊張が走り、先生がトイレに入った時に(いると帰してくれないので)一斉に立ち上がると、先生がトイレから飛び出してきて「お前ら、そんな事するもんじゃない」と怒鳴り、皆が座るのを確かめてから又トイレに飛び込んでいったのは懐かしい思い出です。
 公演活動も始まり、厳しく細かく決められた振り付け演出、しかもそれはどんどん変わり続けます。シーンの中での不都合は当然起こりますが、出演者はその世界を守らなければいけません。リハーサルですがある踊り手が振り付けだけでは間がもたず踊れなくなってしまった時
「言われなきゃやらないのか、お前は一生人に言われなきゃ何もやらないのか」
と怒鳴られその子は泣き出してしまいました、すると先生は声を落ち着け
「舞踏家は細い神経を持たなければいけません、しかし、それを支える強靭な神経も持たなければいけないんです」
その公演の後、先生と二人きりで酒を呑みました、上機嫌の先生は突然私の方に身を乗り出し
「オイッ踊れ、踊るんだ。踊るしかないじゃないか、踊れよ、踊るんだ。現にお前こうしてここで踊っているじゃないか、踊れ、踊れ、踊るんだ」
何を言っているか分からず困惑している私の顔を肴に嬉しそうに先生は酒を呑んでいました。その日の私のわずかなソロパートをとても喜んで下さっていた事を後で人づてに聞いたのですが、このエネルギーの注入の様な言葉の連呼が先生亡き後の苦しい時代をどれ程救ってくれたことでしょう、これは私だけにでは無く、先生の踊る者みんなへのエネルギーのプレゼントだと思っています。
 『親しみの奥の手』というアスベスト館での公演が有り、打ち上げで二階は著名人の方でいっぱいになり、女の子達は料理接待で忙しく、若手の男達は一階の舞台周辺で酒を呑んでいました、宮川正臣が
『ねーっ、照明も音響も舞台も有るんだから踊らない』
と言い出し踊りはじめました、銭湯から帰って来た第二の師匠は見事な孔雀を踊って行き、和栗さんが降りてきて牛を踊ってくれ、盛り上がってきて私とえーりじゅんが全裸でデュオを踊っていると突然誰かが『アッ』と叫び、振り返るとわずか幅10センチの柱に必死に体を細く隠して先生が見ていました。見つけられた先生は何故か気まずそうで
「いやっ、ここはみんなの為の舞台だから自由に踊って下さい」
とスーッと上がっていってしまいました。こんな私達からも先生は何か採集していたのでしょうか。
 夏も過ぎた頃から少しづつ先生の体調がすぐれないのは伝わってきましたがワークショップは11月まで続けられました。東北歌舞伎計画四に向け稽古をするのですが先生の健康状態はしだいに悪くなり、それでも公演の準備は進みます。用事が有り二階に上がると、先生がソファーに全身から綿の粉を噴出しきった後の様に力無く横たわっています。
『先生、大丈夫ですか』と聞くと、
「うんっ」と頷かれ、
「踊りは大丈夫?」とかすれたような声で聞かれました。今思えば公演の準備の進み具合を聞きたかったのかもしれませんが、私は自分の踊りしか考えていず、
『ちゃんと踊れるか自信がないんです』
と答えると、うっすらと笑い
「大丈夫、大丈夫ですよ、ちゃんと踊れます、ちゃんと踊れますよ、大丈夫」
先生が一番苦しいのに、優しく励ましてくれました。
 幾日かが過ぎ、若手の男だけの最後の稽古が有りました、その日の先生の言葉とそれから四年後の思いを、江古田文学1990年17号『土方巽・舞踏』に寄稿しましたが、その抜粋をここに載せさせていただきます。
『東北歌舞伎計画四の稽古が始まり、土方先生の健康状態が普通でない事は自然に伝わってきて日々の緊張感は張り詰め、男子最後の稽古の日、それまで腰掛けていた先生が急に立ち上がり「女の曲線は綺麗ですよ、男なんて誰も見てくれません、じゃ男は何で見せるか、形を見せるんじゃない、見えない物を見せるからあれは何だと見えてくるんです。手など普段はただの尻尾のようなものでしょ、ただぶら下がってるだけでしょ、でも舞台の上で動く時、初めて手は手として誕生するんです。大きく暴れるんじゃなく、ほんの僅か静かな肉体が小指の先を立てる事により世界は爆発するんです。全ては体の内側にあるんで外部に頼って暴れても何も得られないんです。表現しようとするのではなく、じっと内部を辿るんです。
 自分にボーッと取りつかれても駄目、感覚馬鹿(何かというとすぐ感覚感覚と言う人)も駄目、すぐイメージや偶然に頼りたがる。棚から牡丹餅落ちてくるの待ってたってね、落ちてこないんですよ。偶然なんて待っているんじゃなく、首根っこ捕まえてこっちに連れてくるんですよ。白目を剥いて黙って動かない奴がいます、そんな奴は形を真似ているにすぎません、ただ時間が経つのを待っているんです、偶然を待っているんです、その証拠にすぐ暴れだす。今の舞踏家はすぐに出鱈目に踊ろうとする。出鱈目、出鱈目こそ舞踏の母体です、理想です。でもそれは神の天地創造と同じで誰も見た事の無い事なんだ。出鱈目を踊るといって即興だと言っている奴、そんな事は遠くから蟻の動く軌跡を長時間映していると同じ軌跡しか動かないように同じ動きを辿っているに過ぎない、即興は単なる必然の一つにすぎない。即興が大事なのではなく、即興性が大事なんです。真の出鱈目とは命が誕生する、正に光が差され、産まれ出でた時に初めて為される動き、それこそが真に出鱈目の姿であり、舞踏の理想の姿なんです。私が布団の上で苦労して作り上げた形の形だけをみんな盗んでいきます。誰が特許料を呉れます。みんな不真面目です。舞踏を行うのに真に必要なのは、内部の世界へ入っていき、そこに身を置き続ける勇気と偏執的にそこで採集する性質と、そういった事を組み立て練磨していく知性です」
 話し終えた先生は二階へと去り、変わりに第二の師匠が階下へと降りてきて
『先生の入院が決まりました』と告げました。
 私はじめ土方巽の最後の弟子である私達は真に舞踏体でありたいと渇望します。空っぽになった肉体が為すのではなく、それでも足りないので為されるから踊る、肉体の細部に厳密であり、人類の古代から未来への歴史、風土を身に帯び、命や存在など人々の普遍性の世界に身を沈めていく。
 振り付けというと形のみの継承ではないかと疑われたり、舞踏が伝統芸能化していくのではと危惧される方もいるかもしれません。しかし私達の舞踏メソッドが行おうとしているのは、形が生まれ出る時の一回性の必然性を決して衰えさせず再現可能にしようとする事です。内部の荒野に身を晒すという事は思いつきや思い込みによる自己表現の世界で充足する事では無く、天地の森羅万象に体を開く事です。そこから生れ出される形を採集し、再現可能な舞踏体が時間を掛けてあるいは瞬時に形付けられていく。舞踏に於ける即興性は我を出して逃げ回る事ではなく、過敏に揺れる花一輪が運命に腹を括り、荒野に身を投げ出し晒す、その決意の連続する瞬間にのみあるのではないでしょうか。
 追伸、舞踏にとって日常こそ大切だと言われますが、日常の中の舞踏性を発見する事が大事なのであって、人間性そのままを持ち込む事は舞踏性を見失う原因にこそなれ、何の益も無い事です。日常性という舞踏に私怨、我欲、自己陶酔、他にも凡そ舞踏とは関わりの無い様々な要素が入り込んで来ているように思えてなりません。
「舞踏とは今ここから生れてゆくものなのですよ」
その言葉を信じ日々生きていこうと思います』
今から24年前に書いた文章です。
 葬儀は嵐のように様々な事が起こり、私達一番下の弟子は受付や雑務に走り回り、焼香すらやっとの事でした、その後の宴会の用意の為、火葬場にも行けません。先生の棺が担ぎ出されます。ずっと遠巻きにしか先生の体に近寄れなくて、もう先生の体が無くなってしまうと思った瞬間
『私にも担がせてください』
と叫びながら駆け寄ると、中村文昭さんが
『オオーッ、担げっ』
一番前を空けてくれ、霊柩車までのわずかな時間、先生の体の重みを感じさせて頂きました。葬儀の後も様々な雑務や偲ぶ会など忙しい日々が続きましたが、最後に踏天寮生(ワークショップの生徒)が内輪で踊りを捧げる会を催しました。大森政秀さんや武内靖彦さんも自分もそうだろうと言って来てくださりました。その翌日、アスベスト館を後にすると、激しい喧騒から突然何の予定も何も無い世界に放り出された思いがし、真島大栄と斉藤吉彦と三人あても無く歩き続けました。真島が
『オオーッ、花見でも行くか』
と言い出し、季節は激しく桜が舞い落ちる時期になっていました。何も話さず何時間も何時間も散る桜の中で呆けきり、何処にも居ないものになっていたように思えます。葬儀の最後の挨拶で和栗さんが言った
『人生で最高に素敵な人でした』
という言葉がグルグル回っています。
その背後の空から切れ切れの先生の優しい声が花びらの様に舞い降りてきました。
「俺が死んだら墓に石は置かずに梨の木を植えるから、お前その実を食ってくれよ」
「純粋だねっ、純粋だねっ」
「こいつは俺の顔の神経が一本動くと俺が何を言いたいのか全部分かっちゃうんだよ」
「俺は墓の中に電話線繋がせるんです、それでみんなに電話かけまくるんです」
「今うちの稽古場には、息子が二人いるんです」
「あいつは本物だよ」
「人間はね、残念ながら死ねないんですよ」
「オイッ、火の玉、どうした」
 
 

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