舞踏馬鹿の独り言
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正朔の、テルプシコール通信に連載した舞踏に関する文章
舞踏馬鹿の独り言 1
「始めに」
舞踏という難破船はこの先果たして何処へ向かうのでしょう、それとも沈むのか、あるいは他の業種の方々が乗り込むのか。いきなり不謹慎な出だしで申し訳ありません。先輩後輩の方々の日々の真摯な活動を知りつつも、海外で活動が拡がり続けている事を知りつつも一度だけそう呟やかせて下さい。土方先生が稽古場で話されました、
(以降文中「」内は土方先生の言葉です)
「柔らかい手が私を抑圧してくる、舞踏がまずく合理化されていく。」
私は当時まさかそんな事が、先生がいるじゃないか、大野先生がいるじゃないか、先輩方がこんなに頑張っている、舞踏は強く素晴らしく全ての人々の為に開かれたものじゃないか、そんな事はありえないと思ったのです。しかし現在そう呟かざるをえない思いを私も持ってしまいました。それでしばらくの間テルプシコール通信で私の舞踏に対して思う事教えられた事などを土方先生の思い出や言葉も交え書かせていただきます。
そうした思いを持つに至る状況を作り出した最も大きい原因の一つは『舞踏とは何なのですか?』という問いに対して明快な答えを出さないジャンルである事から始まっていると思います。それでそこに様々な解釈が入ってくる、その解釈をするという行為自体が既に危険な要素を含んでいる為に舵取りを誤れば四方八方ではなく真逆に走るという事も往々にして起こりえるという事です。舞踏とはそれほど非常に特殊な問題提示だという事です。
では何故分かりやすく答えないのか、この世の曖昧な命を壊さないように掬い取る為に(そうした日常にひっそりと潜む命を舞踏と先生は呼んでいました。
「光に追い出され震えている闇を抱いてやりなさい」「人間はもう駄目だと思った時、凛として咲く野の花(舞踏)に成っている。」とか、観念的な理解による命名、記号化による絶対的な変質、更にその瞬間その命も自分自身も殺す行為、観念的に知る事と肉体的に知る事とは次元が違う程はるかに遠いものだという事を舞踏は提示したジャンルだからです。
「命の探求に向かっているんです、舞踏という道具を使ってね。」
日常現実に直面するのは先ず肉体です、観念的なものは後からやってくる、そして肉体を管理しようとする。管理されやすい体を作ろうとするわけです。
「あんな事ただ座ってる奴らが考える事だ」
「けつ頭ですよ、頭なんて尻の下なんですよ、頭が体の上に乗っているなんて逆なんですよ」
生命活動に忙しい肉体を組織化された観念は管理化してくる。「
飼い慣らされた動作ばかりで生きてきて、お前は随分ひどい目にあったのじゃないのか、その原因はお前の肉体概念がはぐれているためだ」
「あなたは死ぬまで執行猶予の人生をおくるんですか、それで本当にいいんですか。」
舞踏は一般に開かれた間口の広い世界です、しかしそこには重い扉が有り、それを開いていなければ舞踏とはいえないんじゃないのでしょうか。舞踏にその身を掛け切る事、一度はこの自己をも放棄する事、
「裸体っていうのは衣装を脱げば裸体じゃないのよ。(涙や汗も一切合切脱ぎ捨てた一文無し)裸者(ハダカモノ)それが本当の裸体なんだよ、で、裸体になったから、衣装を着るんだよ」(山口猛インタビュー)
「私はね一度火達磨になって焼け死んでから帰って来た人間しか信用しないんです、いくらもっともらしい事を言ったってね、分かるんですよ。」(空っぽの体、白紙の体、灰柱などに通じて行きますがそれは後日)
最近気になるのは舞踏に安定を求める事です、体内に降りていき採集するという行為は今有る自我を守り続ける行為では無く、むしろ逆で、自我を賭して降りていく行為で陶酔に安易に捕まるなどという事は激しく叱責されました。又全てを混沌であるという事に固執する行為、それは探求を拒否する安定以外の何ものでもない。既に確立された思想宗教を含め他ジャンルを学習する事は大切ですが安直に舞踏家として依存する事は観念から脱却するはずのものが構造は変わらないという危険性が有ります。舞踏家は常に針一点の上に立つような不安定さの上に身を置かねば肉体の知覚は作動しません。
土方先生の回りには優れた知識人表現者の方々が多くいられましたが、突然先生が「お前は舞踏家だ」と叫ぶ事がよくありました。踊れという事ではなく、その瞬間その表現がその在り方が舞踏家だという事です。舞踏とは踊りのみの問題ではなく、命の問題であるという事ですよね、そこに根差し肉体を通した言葉で「舞踏とは~、と一週間かそうですね二週間に一個くらい書き貯めなさいと言われました、そうすると段々朧気に舞踏というものが見えてきますよ。」と教えられました。先生の代表的な言葉は「舞踏とは命懸けで突っ立った死体である。」ですよね。
最後にこの前の先生の命日に慶応のアーカイブでも話しましたが沢山の方々に聞いて欲しくて私の大好きな先生の言葉を又書きます。
先生の所にインタビュアーが来た時『舞踏って何なんですか』と聞かれました。すると先生は「えっ」と驚き、「舞踏って何処か行くと見れるんですか、へぇーっ知らなかった、舞踏って見れるんだ、へぇーっ知らなかった、分かりました、私は是非舞踏を見たいです、どうしても見たいです、何処に行くと見れるんですか、教えて下さい、世界中何処にでも、いつでも見に行きます。金はいくらかかってもいい、借金しても行きます。この稽古場売っても見に行きます。教えて下さい、教えて下さい、いったい何処に行けば舞踏が見れるんですか。」
さすがに先生にそう言われては困ったインタビューアーに薄く笑った先生は、威厳正しく言いました。
「舞踏ってのはね、この世の何処にも存在しないんですよ、あなたと私のこの間のこの一点に(と床の一点を指差し)たった今この瞬間生まれて来るのが舞踏なんですよ」
舞踏馬鹿の独り言 2
「見るという事は」
目で物を見る、耳で音を聞く、鼻で臭いを嗅ぐ、舌で味わう、皮膚で触覚、温度、湿気、光を感じる、こうした知覚の能力はあまりにも多く複雑で語りつくせません。
こうした言葉をひっくり返してみる。見るのは目、聞くのは耳、臭いを嗅ぐのは鼻、味わうのは口、考えるのは頭。当然でしょうと言われるかもしれません、はたしてそうでしょうか、こうした事にも既に舞踏の問題は潜んでいます。
これらはごく最近の方々が常識という言葉であてがわれた事にすぎませんよね。
爪や髪の毛は必要の為に皮膚の進化した物である事はご存知ですよね。目も耳も舌も鼻も皮膚が進化した物です。つまり皮膚は五感の能力を内包しているのです。脳の無い生物はいますが皮膚の無い生物はいないそうです。ですから頭脳の要素すら内包しているのです。
かかとで見る、手首で臭いを嗅ぐ,肩甲骨で音を聞く,膝で味わう、そうした事も有るのです、朧気であったとしても。本当に物を見たい時、目だけで見切れるのか?全身で見ますよね、存在をかけて見ますよね。危機的な状況に立った人ならば当たり前の事ですよね。
胃が食物を内包する様に肺が空気を内包する様に、皮膚は空間を内包する臓器なんです(手袋や靴下を裏返しにする様に)。
目という物は最も脳に直結した情報の管理機能の末端です。得た物を全て管理化していく道具にされています。(この行為は私にとって様々な存在の命を切り取っていく作業に思えるのですが)その事も踏まえて土方先生ワークショップの言葉から目に関する言葉を捜してみました。
「現在の口耳鼻の位置が本当に正しいのか、変えてみる」
「見る様に聞くんですよ、臭いを嗅ぐように見る、盲の様に走るんですよ」
「自分の体を立ち聞きする、自分は宇宙で一番遠い存在」
「感ずる物を見る事が出来る、音を目で見よ」
「能は耳で見る、目で装う」
「見るという行為がね、愛情なんですよ」
「他人の目と自分の目とがぶれていくと二人はとけられる」
「既視感を見るか、見える物と対話するかどちらかにしろ、生な人間関係は嫌だ」
「消える物が存在するんでね、見える物は虚像なんですよ」
「見るという事は見る物と溶け合い、向こうから見られているような気がして、目が潰れた時見えて来る」
「採集をする時順番など無い、目で撫でて覚えろ」
「覚えた物を、見てすぐ忘れるという記憶の仕方、パッと見たらパッと顔を背け、その通りに踊る」
「長く見ると目が腐るんですよ、見る事によって目は敗北している。目を失う事によって物が見える場合も有る(プレダンの様に)。見れば見るほど見失っていく、姿を現さない物を見るチャンスを失う。目に見えない物が半分有るから見える物があるんですよ」
「舞踏家の目は様々な部分に目が付いている、何故目だけが特権的に物を見るんだ、ふくらはぎだって見たがっているんだから、たまには外の風景見せてやれ」
「素晴らしい物は見えなくなる、泣いているから。いつまでも泣いていられない、見ている物に自分自身が成っている。思う事が思われている事になる、花に成りたいでは無く花に成ってしまう。願った時は願われる」
「形や動きを見せるんじゃない、見える物なんてね誰も見てくれないんですよ、見えない物を見せた時あれは何だと初めて見てくれるんですよ」
私は土方先生を巨大な眼球を持った観察者だったと思っています、あらゆる森羅万象に対してもそうですし、表現者踊り手に限らず様々な人々、生き物、物質を食い入る様に見続けていました。ワークショップのある日恐ろしい形相でこう言われました。
「私はあなたがたの為に稽古をしているわけじゃありません、私はあなたがたが見たいんです、今まで暮らしてきたあなた達の姿が見たいんです、それだけでやってるんです、だからこの稽古場であなたの人生に帯びてきた物をありったけ拡げてこの私に見せなさい」先生の優しい叱咤激励でした、再度この言葉を思い出します。
「見るという行為自体がね愛情なんですよ」
見るという事は既に成っているというメタモルフオーゼの舞踏技術を携えて先生は巨大な眼球の観察者として片時も休まずこの世を彷徨し続けていたと私は思います。最後に私の大好きな先生の言葉です。
「見るという事は何か、静かなる暴風雨」
舞踏馬鹿の独り言 3
「稽古で怒られた思い出」
( 「」内は土方先生の言葉です。)
「本当ですか?あなたにとってそれが本当の事なんですか?」
即興を踊り終えた私達に刺す様な視線で先生がそう問いただす事が時々有りました。既に全て見通されていて、ただただ恥じ入るばかりで誰一人声を出せる者はいませんでした。
「まあまあ良いというような踊りを見るくらいならね、あれは無惨だったなーという踊りの方が私は見たいですね」「良い踊りを踊った後にはね踊り手が居なくなった舞台にびっしり踊り手の体の痕跡、内臓や皮や毛や血が散乱して見えるんですよ。暴れろって言ってるわけじゃないんです、あなたの体に起きている事、体に付着した記憶を正確にやるんですよ」
泳げない人間が一気に海に飛び込む様に、その世界に飛び込む決意を知らなかったのか、勇気が無かったのか。
「ケチ臭い奴に舞踏は踊れないんですよ」
「曖昧な行為は許しません。生活に疲れた人に興味が有るのでは無く、疲れた固まりに興味が有るんです。(物質化した様な)これが舞踏で言う心身一如です」
「体が修得するという事は瞬間、瞬間が舞踏の根源です。段々などでは出来ません」
「徐々にでは無く刻々と世界が変化しなければ時間に喰われてしまう」
「一つ一つが同じ時間になるのはメカニズムを追うからです。関わっている自分が出ると時間が均一になる」
踊りの速度の問題が出たので少し話が逸れますが、舞踏がゆっくり動く踊りと思われている事は大変心外です。ゆっくり動いて見えたとしても止まって見えたとしても、体には刻々と様々な状況が関わっているんです。分かり易く一例を出すとサーキットレースを客席で見ているとします。遥か彼方を走る車を身を乗り出して見ていると、身体は遠く拡張されゆっくりと大きく旋回しますが、徐々に近づいて来て手前の道を通り過ぎる時、瞬時に顔は振られます。イメージだけで真似ると、遅い速度が体に残り手前の早い動きは的確には出来ません。反省して動きを計算すると説明にしかなりません。全身を使って本当の事として出来た時のみサーキット場の空間の拡がりが現れ、上手くいけば手前の時に風も出るでしょう。
話を元に戻します。様々なテーマや言葉を投げかけられ踊る時、その言葉と体の関係性がうまく分かりませんでした。言葉を理解してから動くようでは遅いのです。
「客の視線は踊り手より千倍早い」
作為が見えるだけです。目的や観念やイメージにとらわれると、踊り始めた時にはもう終わっている、何も始まってはいなかったという事です。だからといって出鱈目のふりをする、何も始まりませんよね。言葉を体に響かせる。響かない言葉は信用出来ない。
「イメージの介在出来ない所に体を追いやる。虫にたかられた飢えたアフリカの子、脳の中に蠅がたかるとか」
「目的に飼い慣らされると、体の遠い所を忘れてしまう」
「あるメソッドなどを分析していく、その中に少量の観念が入っていると、そういう所には有機的な物は貫通していきません」
前にも言いましたが日常現実に直面するのは先ず肉体です、その後に観念がやって来ると言いましたが、その前後に感情という物も有ります。これもかなり危険です。災害にあっている最中に悲鳴をあげても絶望しきっても、それは肉体の表れです。感情にひたって踊る事は果たして可能なのか、舞台において感情にひたれるのはお客様だけではと思うのですが。
「普通の舞踏家はすぐカタルシスしてしまう。カタルシスなど下痢する状態で五分で出来る」
ある日踊っている最中に物凄い足音で先生が走って来て「陶酔するんじゃないよー」と怒鳴られ背中を一発激しく叩かれました。
「あまり感動するな、だらしなくなる」
「舞踏は具体的であれ、瞑想するな、陶酔するな、抽象的に成りすぎるな」
「意識的な恣意的な破壊はやめた方が良い、権力に利用される」
稽古中先生に「横になって」と言われて横になると『何寝てるのよ』と先生ではないですが強く蹴られました。
舞踏家としての体の状態では無く舞台に横になった事への戒めだったのでしょう。踊る際に様々な要素に即座に反応出来る状態とそうで無い状態というのが心身共に有ります。その最も初歩で言えば腰にせよ、膝にせよ肘にせよ指にせよ、特殊な振り以外は関節を伸ばしきりません。伸びきった状態は休憩している状態で、動くなり知覚する為には一度折らなければいけません。他にも体の部分にはそれぞれ名前が有り、分けてとらえられていますが、私は体を一つの固まりと考えています。体を通じの良い状態にしておいて、右首筋に針の痛みを感じた時左太ももの裏あたりが緊張したり、他の場所に痛みを感じた時も必ず何処かに何かがおきます。人は痛い所しか見ませんが、全身を使って感じた時と部分だけの時では見え方も自身の感じ方も明らかに違います。 必死で窓から遠くの取 りにくい物を取ろうとする時、手だけでは無く全身が作動しますよね。これを分かり易く例えれば、まだ歩きだしたばかりの子供が歩くのを補助して付いていく母親の様な関係だと思います。行きたい所へ行けるように、取りたい物が取れるように只々愛し助ける母親、自分を表現する為では無く。静かな体が小指一本の踊りを踊る時、静かな体は何もしていない体では無いのです。舞踏には顔の踊りが有りますが、私達は全身が顔だと思い行います。顔だけでやると直径30センチくらいの円程度の表現で、関係の無い胴体が見えています。上半身だと直径1メーターくらいの表現、何もしていない、あるいは体を支える為だけの下半身が見えます。全身であれば直径身長+15センチくらいの表現、面積の違い、マイナス分を差し引くとその違いは歴然でしょう。このような事は単に顔の踊りだけの問題では無い事は充分御理解して頂ける事と思います。
ある日の稽古で必死に動き回る私に、
『何かやっているの?ではそれに関わる状態を言ってみて。知っているのね、でもあなたはそのうちの一つもやっていないのよ、知ってても駄目なのよ。認識した途端に頭から体に余計な事が廻り始めるの。成るというのは成った時に始めて成れるので知る事との隔たりは宇宙大の距離なのよ』
他の稽古で「本当ですか?どうしてそんなに動けるんですか?」
動けなくなった踊り手に「どうして動かないんですか?あなたは人に言われなければ一生動かないんですか?」
その二つの言葉が繰り返され続ける。公演用振り付け稽古で「遅い、5倍の早さで踊りなさい、20倍、もっと早く、100倍のスピード、遅い、出鱈目じゃ無いんですよ、一つ一つ確かにしているんです。」
迷いだらけの様な動きから痙攣の様に成り、揺れ動く草原に捕らえられ、大きな流れに身を奪われていった。
「それに関わっている意思も無くすんだーっ。もぬけの殻になるんですよっ。そう、そこから始めて出発するんです。」
「オイッ、火の玉、どうした。」 『先生、今も溺れています、ひどくゆっくりと。』
舞踏馬鹿の独り言 4
なされる体、成る、空っぽの体。
(「」内は土方先生の言葉です。)
土方先生について語る場が重なると、先生の大きさ深さに直面し、一言一句おろそかに出来ないと思うにつけ、身の震える夜が増えました。
「黙るという事は考える事の暗黒の母親、その暗黒に降りていくのが舞踏」
人に語る事や教える事は自分自身の踊りを悪くする可能性を多く含んでいる事を重々承知していますが、今は正確に凝視すべき時と思い、書き続けさせていただきます。
「芸術家なんてそこいら中に溢れているじゃありませんか、一億総芸術家ですよ、そんな者であろうなんて思いません。ただこの世の歪みの体現者であり続ければ、それだけで良い」
今回は踊る際に前回記した具体的に体で行う事と共に大事だと思っている事を書かせていただきます。
私は舞踏に対して体自体の動きや形よりも、その体によって回りの空間やその存在が変幻、変形、変質していく事の方が興味が有ります。
それを紡ぎ出していく形や動きが好きです。形や動きが似ていても体から出されてくる物が全く違う、いやむしろ塵一つ体から何も出ていないというような違いを皆さん観客として何度も経験がお有りでしょう。
その原因の一つとして、私達が先ず要請されたのは、自分で動くのでは無く、何物かによって必然性を持って動かされるという事が絶対です。
「舞踏は歩くのでは無く押し出される」
先ず歩こうと思うのでは無く、様々な必然性によって思わず歩く。意識的な動きはその作為が見えるだけで同じ存在の繰り返しにすぎませんが、なされる動きはそこで起きた事が感じられます。
(具体的に分からなくても体に響きます)更に体の内外からなしてくる物の変容する空間もその体、存在になるのです。動かされるからといって何でも動きが遅くなるのは想定してから動くからです。また動きに意味無く溜めを入れるに至っては、怠惰な体(私的には心根)とそっぽを向かれたでしょう。雷が大木にゆっくり落ちるとか、気がついてから落ちるなどという事は有り得ません。それは瞬間ですから。技術的には準備が出来た体に落とすと必ず失敗します。準備が出来ていない体に突然落ちてこなければ上手くはいきません。
しかし、その後に裂けて燃え上がる拡張した身体が倒れるに至るまでには、その必然性が起きるまで燃焼による体の変質を受け続けなければ「へーっ、そんなに簡単に倒れられるんですかねーっ、色々有るでしょう、本当ですか、一つ一つちゃんとやったんですか」という声が飛んでくる。暴れたりすぐ倒れるのは、イメージで踊るか興奮だけか体がきついので早く終わらせたいかです。正確には行われていない、実は一切何もしていなかったという事です。
極端な例を出しましたが、なすという事は既になされているという事。扉一つ開けるにしても、体の扉が開かれる様に開いていく。抱くという事は既に抱きしめられている様に抱きしめる。花を見つめると花に見つめられていて既に自分自身が花になっている。願った時には願われていて、その先には救済を願わない姿が救済者に成っているという事も起こりえます。
「人間は一人ぼっちにはなれないんです」
こうした事への関わり方として私達に求められたのは成るという行為です、何物かに成る。例えばライオンに成れと言われたら必死にライオンに成ろうとします。成れるのか?そんな事を考えてしまったらもう成れません。泳げない人間が断崖の上から海に飛び込む、それしか方法は無いのです。全く分からない事に体を投げ出し全力で飛び込む、こうした習慣を身に付ける。じゃお客様はライオンに見えているのか?人間ですよね。しかし、人間の輪郭はとうにはみ出た存在の形が変わります。材質、生命状態が変わります。更にそれに関わる空間が変質します。
先生が踊る時、風景が現出すると言われた所以の一つだと思います。(空間の問題は後日更に詳しく書ければと思います)
「砂漠に一人さ迷う倒れそうな男をそのまま切り取って舞台に乗せるんです、そうすると舞台は砂漠に成るんですよ」
そして、空っぽの体に成る。先生の稽古では寸法の歩行という舞踏譜が有り、これが空っぽの体に成る為の稽古としてよく使われていました。
「舞踏の稽古は歩行に始まり歩行で終わるんです」とおっしゃっていましたが、ある日気がつきました。全ての稽古は空っぽの体に成る為の稽古ではないのかと。逆に返すと空っぽの体に成らなければ私の知っている舞踏は一切踊れない。
「舞踏する器は舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよその器は絶えず空っぽの状態を保持していなければならない」
踊り手にとって体はキャンパスです。キャンパス自体が色の付着を拒否、抵抗、指示するようでは何も始まりません。
「空に成った時感覚が鋭敏に成る」
体(器)が空に成りきって始めて様々な要素が体に入れられ、体の変容がなされます。
「器に物を入れるのでは無く、内容が満たされて溢れ出て表面張力で形が出来る」
形の持続とはものの3秒も持ちません。消えていくんです。どうしたら良いのか、絶えず発生させ続けなければいけません。
「消える物が存在し、見える物は虚像」
消える形が持続、変容、あるいは他の物に成っていく。
「舞踏は空っぽの絶えざる入れ替えである」
空っぽの体に成るという事は、何も考えないと念じたり、そう成った自分をイメージしたり、全てを放棄しようとする体ではありません。意識とそれに飼い慣らされた体との関係を変える事です。具体的には体の知覚を開く事。
「舞踏とは、集中では無く、拡散された集中力を持続せよ」
「私は器が好きです、最高に聞き上手だから」
空っぽに成った体は意識が無くなるのでは無く、体の外から自分自身を見つめている様な関わり方になります。これを俯瞰した目と呼んでいます。そう成ったなら。
「自分を外から客観視し、ぼんやり回してみたり、こっちの方に行ってみた方が良いんじゃないんですかと囁いてみたり、自分を舞台に花の様に活けてみる。振付家の目ですよね。でもしだいにその目が遠くなってくる、お客さんの目です。あの踊り手さん面白いですよねと言ってみたりする。また遠くなり、踊り手はもう見ずお客さんの背中を見ている。演出家の目ですよね。でもそうした演出家の背中を見ているもう一つの目が有る。何なんでしょうね、それはもしかしたら、神の目かもしれない。」
舞踏馬鹿の独り言 5
分からない物を形作る。
(「」内は土方先生の言葉です。)
こうして言葉を連ねてきていますが、言葉という物の怖さを痛感します。果たして私が伝えようとしている事がどれだけ伝えられているのか、一つの言葉は玉虫色の様に人様々に受けとめられていくでしょう。それは色々な表現行為と同じで、何の問題もありません。そうした行為の繰り返しによって、あるたった一つの場、体の有り様、存在の有り様を、様々な方向から出会って頂く事によって気づいていただければというのが私の望みなのです。私とて一介の未熟な修行者にすぎませんから。ただ私が一番恐れているのは『分かりました』という言葉を返される事です。
私がまだ以前の舞踏団に所属している時、もう一人の同僚と、ある新メンバーを何日間もかけて一つの状態を作る為に稽古をつけていました。
ある日突然彼女が輝く様な顔で『私分かりました、やっと分かったんです』と言ったのです。パートナーが私に言いました。『彼女分かったと思う?私駄目だと思う、分かった人間が分かったなんて言わないと思う』
私はといえば、この何日間かの稽古が音を立てて崩壊していく様を見る思いでした。
また一から別の方法で積み上げなければならない。何が彼女に『分かった』と言わせたのか、繰り返される駄目だしの連続に安心が欲しかったのか、舞踏を行うに際し、安心などという物が介在する余地など塵程にも無いのですが。頭で理解する事と体で理解する事の違い、これは真逆なのです、むしろ敵と言っても過言ではありません。新たな命を次から次へと命名し、その命を牢に封じ込め、形骸だけを従属化させ続ける生き方への反旗、それが舞踏なのだと思います。
別の日にある状態の稽古をチーム全員でやっていました。たまたま私だけが、その状態を以前から出来ていましたが、その日の稽古が皆うまくいきません。第二の師匠が『どうやったら出来るか、皆んなに説明しなさい。あなたは何をどうやっているの?』と聞かれた時、既に必要なテキストも動きも出し尽くされ、材料は私も同じなのです。そこから醸し出される掴もうとしたら消えてしまいそうな訳の分からない物との体の関わり合いを説明できず『分かりません』と答えました。怒られるとばかり思っていましたが第二の師匠は笑い『そうよね、出来る時は出来て当たり前だから分からないのよ、出来なくなった時、始めて何を失ったか分かるのよ』
分かっても出来ないという事です。分かろうとする事を諦めた時、始めてやっと全身に蕾みが花開く様に目が開き始めるという事も有りますよね。
今回分かるという事に固執して書いたのは、言葉とは理解する行為に直結しやすい物である事、自分の一番分かりやすい理解の仕方に跳びつき、途端にラップして項目化してしまうと、本来まだまだ見えてくるはずの物が見えなくなる事への危惧もありますし、こうした事が舞踏の立ち方に反する行為だからです。
先生の話を直に聞いた人達の多くが『先生の話はもの凄く分かりやすい、素晴らしい話を沢山聞かせて頂いたと思う。しかし帰り道に、いったい今日何を聞いたのか全くわからない自分に気付くんです。しかし体だけが何か夢の中をさ迷う様な不思議な状態に成っていて、非道い時はそれが何日間も続くんです』先生の文章の言葉は大変魅惑的です。しかし、これを納得しようとして読むと、形骸化した偏った解釈になり、間違った道を歩みかねないという事を強く申し上げておきます。むしろ体の中を透す様に読んだ方が良いのではと思います。
「私の所に最近来る奴は納得する奴と反省する奴ばっかりだ、『分かります、分かります。そうなんですよねー、よーく分かります。』そういう奴は信用しませんねーっ。『駄目なんです、駄目なんです、そいう所が私駄目なんです。』って、本当に駄目なんだよ。お前は何を持って行っても、面白い面白いって喜ぶ、こんな物でも大丈夫かなーって持って行っても、面白いって喜ぶ、だから良いんだよ。」
先生のテキストからカオス(曖昧)についての言葉を幾つか書いてみます。
(A)「今日のテーマはカオス(曖昧)。踊りの究極はカオスです(一般の踊り)。でも、カオスを神の様にありがたがったりしない方が良い。遥か彼方とは此方(こなた)ではないか。宇宙で一番遠いのは自分だ。危機をこちらへ引きずり込むよう要請する。今は永遠に来ないのを待つのが流行っている、来ないのなら首根っこ掴まえて連れてこい。カオスは自分の側、要請する側の問題なのだ。私達の生きている根源とは存在している事なのじゃないか。すぐ人のせいにする、他の何かに頼りたがる。存在の根源は存在そのものだ。曖昧な蒙昧な人間の行為に考えが及ばなければならない」
(B)「カオスに捕われすぎるな。狂気をびっちり詰めれば正気に成る、正気をびっちり詰めれば狂気に成る。あぶれ出さない様に、如何に梱包管理するかが大事。カオスに浸りすぎてて良いのか、むしろ曖昧である事に苛立つ様に接した方が良い。アオミドロは奈落的ですね、爛れドロドロして掬いようの無い姿をしている、人間も根源的な方に行くとそうした物を持っている、次第に何も無いという方に引きずられていく。妄想体。妄想は正気と紙一重なのだ。これはカオスの発展の事を言ってるんですよ。」
(C)「曖昧さをしっかり包囲しなければならない、曖昧なままではいけない、ダラダラと時間ばっかりたってしまう。はっきりするというのでは無く、曖昧さを言葉に出来なくとも把握しているという事。曖昧でしょうがない時、自分で壊した方が良い、足でドーンと踏み、その音の中に溶け込む。」
(D)「割り切れない物が面白い。最初から訳の分からない物を目的としてはおかしい、今の舞踏ですね。普通の踊りは統一出来ない物を統一している、割り切れた物は見ている人も面白くない、だから体が自己目的化していない人が良い、赤子とか失恋した人など。ところがいつの間にか、訳の分からないという事が目的化してしまった」
(E)「もう一つの時間、分かりにくい、曖昧な辺境ギリギリを歩く」
(F)「私達は分からない所から生まれている、永遠は体内に有る。偶然という必然に頼ったり忘れた振りをしたり(今の舞踏)では駄目じゃないのか」
先生のカオス(曖昧)を現前化する為の緻密で丁寧な作業を少しでもご理解頂けたらと思います。
最後に稽古の話をもう一つ。先生の振り付け作業は「どちらかが死なないと(相手に)形がのりうつらない」と言われましたが、第二の師匠が先生に振り付けられ始められた頃、あまりにも難解な言葉が矢継ぎ早に浴びせかけられ、ついに『分かりません』と答えたそうです。
すると先生が「私が必死でこの訳の分からない物と格闘して、その姿を生み出そうとしているのに、媒体であるお前が分からないと言ってしまったら、何も出来上がらないじゃないか」と怒ったそうです。
それ以来、第二の師匠は二度と先生の前で分からないという言葉は使わなかったそうです。この話を聞いた時、何か神聖な物に心洗われる思いがしました。
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