舞踏馬鹿の独り言
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
≪ 2008年 兄貴が死にました | | HOME | | 2007年 「技術の事」 ≫ |
舞踏とはなんですか?
舞踏とは一つのダンススタイルでは無く、生き方の提示です、
様々な事象知識などに人が触れた時、
分析 理解 分類 記録 必要により再現への訓練 応用への訓練
というそれらの管理へのシステムが個人の中でより正確に作動される事を世のより良い常識とされている、
はたしてそうなのか?
管理されやすい道具としてある為に押し付けられた在り方なのではないのか
組織から国家から思想宗教 あらゆる搾取しようとする者達から
人は生まれながら生きるという事を剥奪され、
それに気づかず死に至る事を強制されている、
この事をそれぞれ個人の心が理解し心根を変えれば良いのか
違います
このシステムは個人の在り方にも浸透しているのです
頭脳 心 という管理者が体という下僕を支配しようとするのです
そこから引っ繰り返す
それが舞踏の入り口です、自らが生きるという最初の一歩なんです。
訓練する事によりだんだん得られる物では無く
理解する事で修得できる物でも無く、
むしろ分析理解による修得をめざしたなら永久に逆の方向へ向かうだけです、
混沌 不条理 不安が渦巻く空間にそっと体を置いてみるんです、
そこで囁く体の声を聞いてみる
空間と語り合っている声 体どうしで語り合う声 体の中の闇と語り合う声 見えない物と語り合う声
動こうとせずともとっくに動いている、体以外の物も動いている
何かをなそうとした時にはとっくになされているそういう体の在り方が舞踏の在り方です。
表現を行おうとする体は表現しようとする者の体が見えるだけです、
その形や動きによる記号的な情報の伝達は行はれるでしょうが、
本来体の持つ表現とはもっと大きく普遍的なものです。
むしろ表現などに関心のない体がより表現するのです、
なぜなら彼らは本当に今生きている事に忙しいのですから。
肉体的に異変が起きそれが様々に変化している人がいたとします、
それを痛い、痒い、熱い、と頭脳は理解しだします、
やがて心が悲しい、苦しい、と思い出します、
この順序は絶対なんです、逆転するとしたらそれは心の病などの特殊な例でしょう、
舞台に立つ表現者が感情やコンセプトから表現をまず立ち上げようとするのは本末転倒なんです、
空間を含んだ体の在り方から始まらなければならないし、
それから初めて様々な意味や感情が生まれて来ますが
それを味わうのはたいがいお客様や空間でありであり、表現者がそこに住み着く余裕など合ってはいけないのです、
それらを追い込んだり立ち上げる事があっても、
振り付けにより百回同じ踊りを踊ってもそこに生み出されて来る物は一度として特定できるものではありません。
全体的な話が続きましたがでは具体的にどうしたら良いのか、
具体的に舞踏の潜む場を探し出しじっと凝視しその中に入っていくのです、
それらは日常の生活の中にも多く潜んでいます、イメージや抽象的な物に行ってはいけません、
分かりきった形や動きの間の部分や背後に潜む物を体に入れて持ち帰りじっくり嘗め回してみる、
煙や闇を振りかけてみる、外に雨ざらしにして放っておき、それが朝日で乾いていく、そんな衣装を羽織って漂ってみる。
見えない物を見る、例えば風、壁を立てそこに追い込んでやればつむじ風が起き砂や葉っぱが舞い上がる、
煙の中を通してやれば煙が階段状に立ち上がりそこに番号をふってみる、番号が大事なんでは無くその間が大事だから、暖簾が揺れ、
新聞紙や羽毛が天高く舞い上げられ、それを受けるように鳥が飛んでる。
こんな事を繰り返していると体がほぐれてきて、私の体という知覚も無くなり風景そのものになってしまっていく。
舞踏とは体を明け渡し流れ続けるこの世の存在そのものに成る事です。
≪ 2008年 兄貴が死にました | | HOME | | 2007年 「技術の事」 ≫ |