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正朔ー舞踏 SEISAKU-BUTOH DANCE

舞踏馬鹿の独り言

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2008年 強度の事

日記って難しいですね、
もう書かなくちゃと思った事が三つも宙に浮いたまま、
でも今書いて置きたい事から、
ワークショップにある方が来ました、
終わり帰る道すがら彼に言いました、
前もって言いますが舞踏家として人として
大変好感を持っている人物です、真面目な方です、
今日の稽古に対して
「一度絶望しなければ始まらないんですよね、」と私
「私はいつも絶望しています」と彼
そうじゃなく何一つ身動き一つできず
かといってこのカウントされるタイムをどうしようもできず
体をえぐられる様に崩れはて、
自分の輪郭すら維持できる術知らず、
飛沫化して亡き物に拡散するという絶望、
もう私には何一つできない、
私は何処にも存在していない、
死ですね、
自分の感情や情報の積み重ねをとり合えず重ねた自発の観念に
閉じこもり最後の牙城をひたすら守る絶望では無く、
自分という存在を留めておくことができない、
何一つ残っている物は何処にも絶対無い、100%1000%存在の拡散が届く限り
1ミリの隙も無く、
死ですね
そこからじゃなくちゃ何も始まらない、
何も見えては来ないんですね、
先生が言っていました、
「火達磨になって一度死んで帰って来た人間しか信用しない、
あいつがどんなにもっともらしい事を言っても
生焼けでいるから信用しない、」
分かるんです、何を言っても踊っても、
その人の立ち位置は、
先生や大野先生は
どうして良いか分からなくなってしまった踊り手に
初めて嬉しそうに、
「そこからですよ、そこから舞踏は初めて始まるんです、そこからですよ。」
あえて舞踏とは言いません、現代の表現の問題としてで結構です、
表現者の動き、形、コンセプト、情報を媒体とした一過性の消耗品としての在りかた、
ブランドとしての在りかた、How to 物としての在りかた、
にかき回されている様に思えてなりません、
私達の命に根ざした表現は?
以前新潟で公演をした事が有ります、
今は亡くなってしまいましたが仁村桃子さんが見に来て下さり
あの子とあの子は命をかけている、あの子とあの子は命をかけてはいない、
私達の頃はみんな命をかけていた、
と話されたそうです、
動きや形をとやかく言う人(若い人も多い)がいますが
私は先輩の皆さんを誰それというのではなく皆さん
尊敬しています、
命をかけて死にいたる絶望を浴し
我が身から剥離し我が身を包む空間を我が身とした己が
我が身を形造る、
我が身を誕生させる、
肉体の喜びへと、
命に存在に根ざした表現であれと。
個人事はどこまで行っても個人事なんですよ。
以前先生が鎌鼬の写真をみんなに嬉しそうに見せてくれました、
刈り取られた田んぼの中を
泣き叫ぶ赤ん坊を抱きながら走っている写真がありました、
「この赤ん坊は私なんですよ、泣いている私を抱いてね
私は走っているんですよ、
我を泣く 我を我抱く 真夏かな 」






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