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正朔ー舞踏 SEISAKU-BUTOH DANCE

舞踏馬鹿の独り言

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「帰ル」の為の文章Ⅰ

何もかも忘れてしまい
すっかり呆け切ってしまった瞬間
涙が止まらなくなる事が有る、
何故なのか、何が起きたというのだろう
とめどもなく
静かに静かに止まらないのだ、
帰りたい
何処へ
帰りたい、
愛し続けた人達への軌跡か、
愛され続けた人達の抱擁の記憶へか、
積み重ね続けられた営みへの執着か、
解らなくなる、
肉体の中への梯子を駆け下り落下、
溶け崩れ染みわたり腐敗化して立ち上がる、
生きる事に帰りたい、
未来を切り開く事に
静かに営み続ける事に帰りたい、
寄せては返す波の彼方、水平線の彼方、
黄金色に輝く没陽と共に去り朝陽と共に生み出される
その私達の故郷、
(其処は深く佇む所に在る、
深く深く佇む所に在る、
更に深く佇む所に
やっと手が触れ合い
手に引かれ更に溶け込まれる所に、
私達はけして一人ではないのだ、
私達が生み出された所
私達が帰り逝く所、)
死とは再生の始まりなのだ、
裸の精子として、裸の卵子として、
私達はこの瞬間に立たされています、
帰りましょう、
無垢な身体として
無垢な粒子として
震えているこの大地を
そっと抱きしめてあげましょう。



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「夏の家族」に寄せて

 「夏の家族」 
         一匹の精子のリアリズム


勝手な思い込みが多いであろう事をお許し下さい、
そのストーリーや出来事を追うよりも
冒頭から岩名さんの体内の霧に包まれた心の襞に入り込む思いでした、
その霧の中に落下し浮遊し
ざらついた石壁にたどり着き
家の中を彷徨い
その奥深い部屋の中
硬直して横たわる
岩名さんの体、頬、唇に触れてみる、
本当だったんですね、
事の辻褄や良し悪しよりも
心象の在りかたをより正確に深く現しだそうとするその執念、
昨今そういう方がすっかり減ってしまい
淋しく思っていたので
大変嬉しく見させていただきました、
今回描き出そうとされた世界は
けして今回の作品の為に作られた物では無く、
生まれる前から体内に宿し静かに運び続けてきた物ではないのでしょうか、
それを縦一文字に腹掻っ捌き、
静かに体を開き
衆目の前に晒し続ける、
人がどう見たとしても
変えようもない真実だから
岩名さんならではですよね、
今回映画を見ている間に何故か土方先生の大好きな言葉を何度も思い出していました、
「一匹の精子がハラハラと師範学校の長い廊下を歩いているという思いに駆られることもありました、リズムから見放された一匹の精子がふらふらと。私はそういう少年時の私を思い出すと不覚ながら涙をこぼしたりする。人前では見せませんが。」


                                 正朔

2009年正月

風邪を引き寝続けていた、
地獄の釜の上に布団が敷かれ、
湯気の中夢が現か現が幻か
湯気の向こうの闇から見続ける視線など
今更かまいたくもない、
たまたま来ていた92歳の母にもうつり
湯気が湯気を看病し湯気が湯気を労わりあう、
大丈夫?大丈夫だよ、
お前は大丈夫?大丈夫だよ、
母が眠り
何故か眠れず湯気化した思考の中で
今まで生きて来た事の幾筋かを
解してはかざし見て闇の向こうへ押しやるのだが
今日この頃は空気が重い、
でもこの空気は懐かしい、
まだランニングシャツに半ズボン顔がずっと日陰だった頃のように、
人の視線は低くゆっくりと旋回してくるが
確実にこちらを突き通してくる、
茫漠とした私を包み込む様に先生が立っている様な気がした、
でもいつもの先生じゃ無い、
先生の体をした神様?
先生神様になったの?

「体を焼きなさい、
 ようく焼きなさい、
 上手に焼くんですよ、
 裏表ていねいにするんです、
 手を抜いちゃ駄目ですよ、
 しっかりこんがり美味しく焼くんです、
 あなたの命が有る限り
 隅から隅まで
 しっかりこんがり美味しく焼くんです、
 手を抜いちゃ駄目ですよ、
 神が喰うのだから
 神の肉体に成るのだから
 嘘偽り無く
 体を焼き尽くしなさい。」

2008年 強度の事

日記って難しいですね、
もう書かなくちゃと思った事が三つも宙に浮いたまま、
でも今書いて置きたい事から、
ワークショップにある方が来ました、
終わり帰る道すがら彼に言いました、
前もって言いますが舞踏家として人として
大変好感を持っている人物です、真面目な方です、
今日の稽古に対して
「一度絶望しなければ始まらないんですよね、」と私
「私はいつも絶望しています」と彼
そうじゃなく何一つ身動き一つできず
かといってこのカウントされるタイムをどうしようもできず
体をえぐられる様に崩れはて、
自分の輪郭すら維持できる術知らず、
飛沫化して亡き物に拡散するという絶望、
もう私には何一つできない、
私は何処にも存在していない、
死ですね、
自分の感情や情報の積み重ねをとり合えず重ねた自発の観念に
閉じこもり最後の牙城をひたすら守る絶望では無く、
自分という存在を留めておくことができない、
何一つ残っている物は何処にも絶対無い、100%1000%存在の拡散が届く限り
1ミリの隙も無く、
死ですね
そこからじゃなくちゃ何も始まらない、
何も見えては来ないんですね、
先生が言っていました、
「火達磨になって一度死んで帰って来た人間しか信用しない、
あいつがどんなにもっともらしい事を言っても
生焼けでいるから信用しない、」
分かるんです、何を言っても踊っても、
その人の立ち位置は、
先生や大野先生は
どうして良いか分からなくなってしまった踊り手に
初めて嬉しそうに、
「そこからですよ、そこから舞踏は初めて始まるんです、そこからですよ。」
あえて舞踏とは言いません、現代の表現の問題としてで結構です、
表現者の動き、形、コンセプト、情報を媒体とした一過性の消耗品としての在りかた、
ブランドとしての在りかた、How to 物としての在りかた、
にかき回されている様に思えてなりません、
私達の命に根ざした表現は?
以前新潟で公演をした事が有ります、
今は亡くなってしまいましたが仁村桃子さんが見に来て下さり
あの子とあの子は命をかけている、あの子とあの子は命をかけてはいない、
私達の頃はみんな命をかけていた、
と話されたそうです、
動きや形をとやかく言う人(若い人も多い)がいますが
私は先輩の皆さんを誰それというのではなく皆さん
尊敬しています、
命をかけて死にいたる絶望を浴し
我が身から剥離し我が身を包む空間を我が身とした己が
我が身を形造る、
我が身を誕生させる、
肉体の喜びへと、
命に存在に根ざした表現であれと。
個人事はどこまで行っても個人事なんですよ。
以前先生が鎌鼬の写真をみんなに嬉しそうに見せてくれました、
刈り取られた田んぼの中を
泣き叫ぶ赤ん坊を抱きながら走っている写真がありました、
「この赤ん坊は私なんですよ、泣いている私を抱いてね
私は走っているんですよ、
我を泣く 我を我抱く 真夏かな 」






2008年 舞踏を思い独り言

ワークショップや他の方の公演や日常の様々な事柄から
時々自分の体が教わったのか自然となのか
やっている謎の部分の解答が
突然解る時が有ります、
私は舞踏に対して体自体の動きや形よりも
その体によって回りの空間が変幻変形変質していく事の方が興味があります、
それをつむぎ出していく形や動きが好きです、
形や動きが似ていても体から出されてくる物が全く違う
いやむしろ塵一つ体から何も出ていない、
というような事は皆さん観客として
何度も経験がお有りでしょう、
この前ある踊り手がとても好きなんだと思います、
著名な踊り手の動きを真似た踊りを踊っていました、
私は真似るという事は全く悪い事ではないと思っています、
私も何度も他の方を真似ましたし、
実際真似しきれるものではなく、
そこに自分自身が出て来ざるをえませんからね、
その踊り手は大変動きのコピーは素晴らしかったです、
でも体が小さく見える、
踊っても踊っても空間が広がらない、
その元になった踊り手は
立っているだけで体が大きく見え
踊れば踊るほど空間が広がっていきました、
具体的に何が違うんだろう、
ある事に気がつきました、
もちろんそれが全てではありませんが、
背中に表情が無い、
これは体が行っている動きに必然性が無い為
体が一つの塊として機能していないという事の証明です、
舞踏はお客さんに見える部分を踊らせることよりも
お客さんの見えない部分で踊る事こそ重要ですし、
背後の空間をそこで知覚しなければなりません。
その時客観的に見ていて
あーそうすれば腰は定まらざるを得ないよな、
腰が定まれば下半身が自由になる、
そうすれば全身の表現として存在が大きくなる。
自分自身としてはなんとなくそうしていて
人に教える時は
背後の知覚、腰をきめる、下半身を自由にさせてやると
バラバラのテーマとして教えていましたが
これは一つの事なんだと
改めて実感しました、
腰一つにしても一朝一夕に出来るものではなく
私など根性論と舞台数で修得しましたが
今は長岡ゆり氏のおかげで具体的な訓練を
私も一弟子として教われるのは幸せです、
ただ始めたばかりの人にはこの重要性がなかなか解ってもらいずらく
身の入らない稽古は悪い癖をつけてしまいます、
みなさん大変ですけど頑張りましょう、
それと腰を作るというと他ジャンルに走る方がいますが
舞踏の腰は舞踏でしか出来ません。



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